第三章 三人になった家
周が帰ってきたのは、二年目の春だった。
数日前に、電話があった。
「この数日で帰る。」
劉は庭で洗濯物を干していた。
「いつ?」
「二日後くらい。」
「どのくらいいるの?」
「十日か、二週間くらい。」
劉はそれ以上聞かなかった。
手にしていた服を広げ、物干し竿に掛ける。
「じゃあ、明日買い物に行く。」
「そんなに買わなくていい。」
「分かってる。」
「俺も何か買って帰る。」
「何を?」
「帰ってからのお楽しみ。」
電話の向こうで、周が笑った。
劉も少し笑った。
周が帰ってきたのは、その二日後の午後だった。
村の入り口で、何人かが声をかけた。
「上海から帰ってきたのか?」
「うん。」
「ずいぶん稼いだんだろ?」
周は笑った。
「そんな簡単じゃないよ。」
「外は村より稼げるんだろ?」
「まあ、少しはな。」
周は古い鞄を背負い、もう一つ袋を手に持っていた。
家の前まで来ると、劉は台所で何かをしていた。
物音を聞いて、外へ出てくる。
二人は玄関先で、しばらく顔を見合わせた。
周が先に言った。
「帰ったぞ。」
「うん。」
劉は周の持っていた袋を受け取った。
「何買ってきたの?」
「服。」
「誰の?」
「お前の。」
劉は袋を開けた。
中には、あまり高そうではない服が一着入っていた。
色も、特別きれいなものではない。
劉は服に触れた。
「いくらしたの?」
周は笑った。
「帰ってきて最初に聞くのが、それかよ。」
「聞いちゃいけないの?」
「いいよ。」
「じゃあ、いくら?」
「忘れた。」
劉は周を見た。
「またそんなこと言って。」
周は鞄を置いた。
「飯は?」
「もう少し。」
「腹減った。」
「じゃあ、座ってて。」
周は木の机の前に座った。
机は昔のままだった。
二つの棚も、そのままだった。
ベッドの脚も、相変わらず少し緩んでいる。
周は部屋の中を見回した。
「何も変わってないな。」
台所から劉の声が聞こえた。
「何が変わるのよ。」
周は答えなかった。
しばらくして、ふと思い出したように聞いた。
「布団は?」
「まだ使ってる。」
「替えるって言ってなかったか?」
「あなたが来年替えるって言ったんでしょう。」
周は一瞬黙った。
それから笑った。
「じゃあ、替えるか。」
劉は振り返らなかった。
「今になって?」
「一回外で寝てみたら分かった。」
「遅いよ。」
周は笑いながら首を振った。
その夜、二人はいつもより長く食事をした。
特別な料理があったわけではない。
ただ、劉が普段より二品ほど多く作った。
周は食べながら、上海でのことを話した。
仕事のこと。
住んでいる部屋のこと。
一緒に住んでいる人のこと。
ある日は仕事から帰ると、靴も脱がずに眠ってしまったこと。
劉も村の話をした。
誰の家が何を植えたとか。
誰の子どもが県城へ行ったとか。
どこの家の老人が体調を崩したとか。
周は黙って聞くこともあれば、時々質問することもあった。
離れて暮らすようになってから、二人は以前より話すことが増えた。
毎日顔を合わせていた頃は、話さなくても分かることが多かった。
今は離れている。
だからこそ、その日にあったことを話さなければ、相手には何も分からない。
周が家にいられるのは、二週間ほどだった。
出発の日が近づくと、劉は何も言わずに服を鞄へ詰めた。
周はその横に立っていた。
「今度は、何か月か帰れないかもしれない。」
「うん。」
「家で何かあったら電話してくれ。」
「分かってる。」
「金、足りてるか?」
「足りてる。」
「本当に?」
「足りてるって。」
周は頷いた。
そして、いくらかの金を机の上に置いた。
「これ、置いとく。」
劉が金を見る。
「こんなに?」
「何か月か節約した。」
「あなたの分は?」
「俺はまだある。」
劉は返そうとしなかった。
そのまま金をしまった。
翌朝、周はまた家を出た。
今度は劉も村の入り口までは送らなかった。
玄関までだった。
周が歩き出して数歩すると、振り返った。
劉はまだ玄関に立っていた。
二人とも何も言わなかった。
周が手を少し上げる。
劉も手を上げた。
そして、周はそのまま歩いていった。
また、いつもの生活が始まった。
けれど、それからしばらくして、劉は自分の体に少し変化があることに気づいた。
最初は気にしなかった。
最近、畑仕事が続いているからだと思った。
ある日、庭で休んでいるとき、ふと気づいた。
しばらく月のものが来ていない。
劉はその場に座ったまま、しばらく考えた。
それから家の中へ入った。
数日後、町の診療所へ行った。
帰ってきたとき、手には何も持っていなかった。
顔にも、特別な表情はなかった。
その夜、食事をしながら、劉は突然言った。
「周、いつ帰ってくるんだっけ?」
返事はなかった。
しばらくして、自分が何を聞いたのかに気づいた。
周はまだ上海にいる。
その夜、劉は電話をかけた。
「もしもし?」
「どうした?」
「何でもない。」
「何でもないのに電話したのか?」
劉は少し黙った。
「赤ちゃんができた。」
電話の向こうが静かになった。
数秒して、周が聞いた。
「本当か?」
「本当。」
「いつ分かった?」
「何日か前。」
「どうして今まで言わなかった?」
「私も、ちゃんと分かったのは最近。」
周はまた黙った。
それから、少し笑った。
「じゃあ、俺たちにも子どもができるんだな。」
「うん。」
「男でも女でも、どっちでもいい。」
劉は何も言わなかった。
周が聞いた。
「体、大丈夫か?」
「大丈夫。」
「これから、重い仕事はするなよ。」
「分かってる。」
「畑も、できるだけ休め。」
「そんなに人に頼める仕事じゃないよ。」
周は、劉の声が少し硬くなったのを感じた。
「できるだけ減らせってことだよ。」
「分かってる。」
しばらく話した。
電話を切る前、周が言った。
「できるだけ早く帰る。」
劉が聞いた。
「仕事は?」
「何とかする。」
「それで仕事をなくしたら困るよ。」
「分かってる。」
電話を切った。
周は上海の部屋で、一人、ベッドの端に座っていた。
すぐには眠れなかった。
自分が父親になる。
そう言われても、どういうことなのか、よく分からなかった。
子どもの頃は、ただ家が貧しかった。
大人になれば、金を稼ぐことを考えた。
結婚してからは、家の暮らしを少しでも楽にすることを考えた。
今度は、そこにもう一つ責任が増える。
そう思った。
翌日も、周はいつも通り仕事へ行った。
休憩時間、同じ職場の男に聞いた。
「子どもいる?」
「いるよ。」
「父親になるって、どんな感じだった?」
男は笑った。
「そんなの、覚えてないな。」
「何も感じない?」
「最初は嬉しかったよ。」
「その後は?」
「その後は、金が足りなくなった。」
周も笑った。
「それだけ?」
「他に何がある?」
男は周の肩を軽く叩いた。
「生まれたら分かるよ。」
周はそれ以上聞かなかった。
その夜、劉に電話をかけた。
「今日はどうだった?」
「まあまあ。」
「具合悪くないか?」
「大丈夫。」
「そうか。」
「あなたは?」
「俺も普通。」
「今日、仕事きつかった?」
「まあな。」
二人とも、子どもの話をしなかった。
しばらくして、劉が聞いた。
「名前、どうする?」
周は黙った。
「もう名前のこと考えるのか?」
「いつ考えるの?」
「まだ生まれてないだろ。」
「分かってる。」
劉は笑った。
「あなた、本当に何も考えてないね。」
「男か女かも分からない。」
「二つ考えればいいじゃない。」
周は少し考えた。
「生まれてからでいいだろ。」
「どうして?」
「今はまだ分からないから。」
「じゃあ、あなたが二つ考えて。」
周は答えなかった。
しばらくして言った。
「お前が考えろ。」
「父親なのに、何でも人任せ。」
周は笑った。
「俺は金を稼ぐ。」
「金以外は?」
「それは、これから覚える。」
劉は何も言わなかった。
けれど、その言葉を聞いて、少しだけ気持ちが軽くなった。
妊娠してから、劉は畑仕事を少し減らした。
村の人たちも、それを知るようになった。
「何か月?」
「まだ早いよ。」
「周は知ってる?」
「知ってる。」
「いつ帰ってくるって?」
「帰るって言ってた。」
同じようなことを、何度も聞かれた。
劉は面倒に思うこともあった。
けれど、誰にも気にされないよりはいいと思うこともあった。
ときどき庭に座って、まだほとんど膨らんでいない腹に手を当てた。
この子がどんな人になるのかは、分からない。
自分がどんな母親になるのかも、分からない。
ただ、家の中に、まだ会ったことのない人が一人増えた。
まだ一言も話していない。
それでも、その存在だけで二人の生活は少しずつ変わり始めていた。
周が送ってくる金も、少し増えた。
最近、仕事を増やしたらしい。
劉には分かっていた。
周が自分の生活費を削っているのだろう。
だから、電話をすると言った。
「何でも我慢して食べないのはやめてよ。」
「分かってる。」
「前からそうなんだから。」
「大丈夫。」
「病気になったらどうするの?」
「ならない。」
「どうして分かるの?」
周は答えなかった。
劉も、それ以上は言わなかった。
ただ、初めて気づいた。
自分は、上海にいるこの男のことを前より心配している。
以前なら、周がいなくても一人で暮らせた。
今は違った。
お腹の中に子どもがいると分かってから、家に一人足りないような気がすることが増えた。
周に帰ってきてほしいと思うようになった。
その年の秋、周はようやく帰ってきた。
今回は、十日や二週間でまた出ていくつもりではなかった。
しばらく家にいることにした。
子どもが生まれる時期が近づいていたからだ。
仕事のほうも、いったん区切りをつけてきた。
帰る途中、周は町でいくつか買い物をした。
赤ちゃん用の服。
それから、小さな靴。
手に取ったまま、しばらく眺めた。
最後には、それも買った。
家に着くと、劉が荷物を受け取った。
小さな靴を見て、笑った。
「こんなに小さい。」
「そのうち履くだろ。」
「まだ先なのに。」
「買っておけばいい。」
劉は靴を机の上に置いた。
二人でしばらく眺めた。
周が指で靴に触れた。
「こいつ、大きくなったら、足どれくらいになるかな。」
劉が笑った。
「まだ生まれてもいないのに、足の心配してるの?」
周も笑った。
その夜、二人はベッドに入った。
周はいつものように背中を向けなかった。
横を向いて、劉を見た。
「大変だったな。」
劉は答えなかった。
少ししてから言った。
「これから、あなたも大変だよ。」
「分かってる。」
「子どもが生まれたら、もっと金がかかる。」
「分かってる。」
「学校にも行かせないと。」
「分かってる。」
劉が周を見た。
「何を分かってるの?」
周は少し考えた。
「何も分かってない。」
劉は笑った。
「それならいい。」
二人も笑った。
窓の外は静かだった。
その夜、二人は初めて、自分たちがもう二人だけではないことを感じていた。
けれど、この家がこれからどうなっていくのかは、まだ分からなかった。
子どもがどんな性格になるのか。
勉強が好きになるのか。
病気をするのか。
大きくなったら家を出ていくのか。
親と喧嘩するのか。
そんな先のことまで、二人は考えていなかった。
ただ、育てていけばいい。
それだけだった。
その数か月後、子どもが生まれた。
男の子だった。
周は病院の外で、赤ちゃんの泣き声を聞いていた。
中へ入ることもできず、ただ立っていた。
しばらくして、中から人が出てきた。
「母子ともに大丈夫です。」
周は頷いた。
「そうか。」
笑おうとした。
けれど、なぜか目の奥が熱くなった。
周は自分の靴を見た。
しばらくして、ようやく笑った。
その夜、初めて自分の子どもを抱いた。
小さかった。
手も、小さかった。
周は壊してしまいそうで、力を入れられなかった。
劉がベッドから見ていた。
「ちゃんと抱いて。」
「分かってる。」
「落とさないでよ。」
「落とさない。」
周は子どもの顔を見た。
子どもは目を閉じていた。
泣いてもいない。
周は小さな声で言った。
「俺がお父さんだ。」
言ってから、自分でも少し変な感じがした。
もちろん、子どもは答えない。
聞こえているのかどうかも分からない。
しばらくして、周は子どもを劉に渡した。
「お前が抱いて。」
「もういいの?」
「怖い。」
「そんな簡単に壊れないよ。」
劉は子どもを抱いた。
周はその横で、しばらく二人を見ていた。
そのとき、周は何十年後のことなど考えなかった。
自分がどんな父親になるのかも考えなかった。
ただ、妻と子どもを見ていた。
家に、もう一人増えた。
それだけだった。
けれど、その日から、それまで二人だけで考えていたことが、少しずつ三人の問題になっていった。
金。
食事。
睡眠。
病気。
学校。
そして、その先にある、まだ考えたこともないこと。
二人の間にあった昔からの問題が、子どもが生まれたからといって消えるわけではなかった。
むしろ、これまでなら一言で済ませられたことにも、新しい理由が加わるようになった。
誰が子どもの面倒を見るのか。
何を食べさせるのか。
何を買うのか。
どこまで親が決めるのか。
子どもが大きくなったら、どんな学校へ行かせるのか。
その頃の二人は、まだ何も知らなかった。
ただ、子どもが生まれた。
三人になった。
そして三人の暮らしが、始まった。




