第二十九章 次の話
秋になった。
林の仕事も、少しずつ忙しくなっていた。
入社した頃は、先輩に確認しながら進めていた仕事も、今では一人でできるものが増えた。
それでも、毎日同じように疲れた。
帰宅すると、靴を脱いで、手を洗う。
母親が用意した夕食を食べる。
テレビを少し見る。
そして、自分の部屋に戻る。
特別なことはない。
それでも、以前の生活とは違っていた。
ある土曜日の午後、母親が買い物から帰ってきた。
「林、ちょっと聞いて」
「何?」
「この前、近所の李さんと話してたんだけどね」
林はスマートフォンから顔を上げた。
「うん」
「李さんのところの娘さん、来年結婚するんだって」
「そうなんだ」
「相手の人、会社員らしいよ」
「へえ」
林はそれだけ答えた。
母親は買ってきたものを台所に置いた。
「最近、周りでも結婚する人が増えたね」
林は少し笑った。
「そういう年齢なんじゃない?」
「林も、もう若くないでしょう」
「まだ若いよ」
「そう言うと思った」
母親は笑った。
夕方、父親が帰ってきた。
母親が昼間の話をすると、
「そうか」
とだけ答えた。
しかし、少ししてから林に聞いた。
「お前は、結婚とか考えてるのか?」
林は箸を止めた。
「今は、あまり考えてない」
「そうか」
「仕事が始まったばかりだし」
父親は頷いた。
「まあ、そうだな」
それ以上は続かなかった。
林は少し安心した。
ところが、その夜。
母親が林の部屋の前に来た。
「入っていい?」
「うん」
母親は椅子に座った。
「さっきの話だけど」
「うん」
「お母さんは、急いで結婚しろって言ってるわけじゃないからね」
「分かってる」
「ただ、いい人がいたら、会ってみてもいいんじゃない?」
林は少し笑った。
「それは分かるけど」
「何?」
「今、仕事だけで結構いっぱいいっぱいなんだよ」
母親は黙った。
「仕事を覚えて、生活も安定させて、それから考えたい」
「そう」
「結婚するかどうかも、まだ分からないし」
母親はしばらく考えていた。
「そういうものなのかな」
「たぶん」
「お母さんの頃は、そんなに考えなかったけどね」
林は笑った。
「だから、母さんの頃とは違うんじゃない?」
母親も少し笑った。
「そうね」
部屋を出る前に、母親が振り返った。
「でも、ずっと一人でいるのも大変よ」
林は答えなかった。
母親も、それ以上は言わなかった。
翌週の日曜日。
林は買い物に出かけた。
駅前で、大学時代の友人に偶然会った。
「林じゃん」
「久しぶり」
「今、何してるの?」
「普通に働いてるよ」
「へえ。どこで?」
林は会社の名前を答えた。
友人は笑った。
「じゃあ、もう安定じゃん」
林も笑った。
「まあ、そうかも」
「結婚とかしてる?」
「してない」
「じゃあ、これからだな」
友人は軽く言った。
林は笑って、
「そうだな」
と答えた。
駅で別れたあと、林は一人で歩いた。
「安定」
最近、何度も聞く言葉だった。
仕事がある。
給料がある。
家に住んでいる。
生活も少しずつ落ち着いてきた。
次は結婚なのか。
その次は家なのか。
そして、その先は何なのか。
林は考えた。
でも、誰かが決めた順番に従っていけば、自分の生活が自然にうまくいくわけではない。
それは、仕事を探していたときに少し分かった。
仕事が決まっても、不安はなくならなかった。
ただ、不安の種類が変わった。
結婚したら、また別の問題が出てくるのかもしれない。
家を買ったら、また別の問題が出てくるかもしれない。
何を選んでも、生活には続きがある。
林は駅前のベンチに座った。
スマートフォンを開いた。
母親からメッセージが来ていた。
「晩ご飯、何食べたい?」
林は少し考えて、
「何でもいいよ」
と返した。
すぐに返信が来た。
「それが一番困る」
林は笑った。
「じゃあ、魚」
「分かった」
スマートフォンをポケットに入れる。
結婚について、まだ答えは出ていない。
家を買うことも考えていない。
ただ、今は仕事をして、少しお金を貯めて、生活を整える。
それだけだった。
それだけの生活も、悪くないと思った。




