第二十八章 家に入れるお金
給料が二回目に入った月、林は自分の通帳を確認していた。
働き始めたばかりの頃より、少しだけ残るお金が増えた。
それでも、思っていたほど多くはなかった。
家に入れるお金を払い、自分の生活費を出す。
残った分から少し貯金する。
それだけで、月末にはほとんど余裕がなくなる。
ある夜、母親が言った。
「今月、家に入れてくれたお金、少し多かった?」
「うん。給料が少し増えたから」
「そんなに無理しなくていいよ」
「無理してないよ」
母親はそれ以上言わなかった。
翌朝、父親が新聞を読みながら言った。
「この前、会社の人から聞いたんだけどな。若い人は給料をもらったら、まず貯金したほうがいいらしいぞ」
林は笑った。
「父さんがそれ言う?」
「俺だって貯金は大事だと思ってる」
「昔、俺が欲しいもの買おうとしたら、いつも貯金しろって言ってたよね」
「そうだったか?」
「そうだったよ」
母親が笑った。
「お父さんは昔からそうよ」
父親は新聞を畳んだ。
「まあ、金があるに越したことはないからな」
林はご飯を食べながら頷いた。
「うん。俺もそう思う」
少しして、父親が聞いた。
「いくらくらい貯めるつもりなんだ?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、目標を決めたらいい」
林は考えた。
「とりあえず、三か月分くらい生活できるお金かな」
「三か月?」
「仕事を辞めたり、何かあったときのため」
父親は少し驚いた。
「また仕事を辞めることを考えてるのか?」
林は箸を止めた。
「そういう意味じゃないよ」
「でも、そういうことを考えてるんだろ?」
「何かあったときのために考えてるだけ」
父親は黙った。
林も黙った。
母親が二人を見た。
「お父さん、それは違うでしょう」
「何が?」
「仕事を辞めたいって言ってるわけじゃないでしょう」
父親は少し考えた。
「そうだな」
林はご飯を食べ終えた。
「俺、今の仕事は続けるつもりだよ」
「うん」
「でも、ずっと同じ会社にいるかどうかは分からない」
父親は何も言わなかった。
しばらくして、
「まあ、それはそうだな」
と言った。
林は少し安心した。
その日の夜、林は自分の口座から少しだけ貯金用の口座へお金を移した。
金額は大きくなかった。
それでも、数字を見ていると少し落ち着いた。
以前は、仕事がないことが不安だった。
今は、仕事を失ったときにどうするかを考えている。
不安がなくなったわけではない。
不安の形が変わっただけだった。
数日後、林は会社で先輩から声をかけられた。
「林さん、最近どう?」
「少し慣れました」
「よかった。来月から、もう少し仕事を任せようと思ってる」
「分かりました」
「大丈夫?」
「やってみます」
先輩は笑った。
「最初からできる人はいないから」
「はい」
仕事を終えて家に帰ると、母親が夕食を作っていた。
食事の途中で、母親が言った。
「最近、お父さんもあまり仕事のことを聞かなくなったね」
林は少し笑った。
「そうだね」
「前は毎日聞いてたのに」
「俺が仕事をしてるって分かったからじゃない?」
母親は頷いた。
「たぶんね」
林は箸を置いた。
「でも、仕事をしてるからって、何でも大丈夫なわけじゃないよ」
「分かってるよ」
「母さんは?」
「何が?」
「俺がまた仕事を辞めたらどうする?」
母親は少し考えた。
「心配すると思う」
「うん」
「でも、前みたいに毎日聞くのはやめるかもしれない」
林は笑った。
「それは助かる」
母親も笑った。
「でも、何もしないでずっと家にいたら、また言うよ」
「そこは言うんだ」
「親だからね」
林は少し笑った。
完全に変わったわけではない。
母親も、父親も、昔からの考え方を全部捨てたわけではない。
林自身も同じだった。
それでも、以前とは少し違う。
家にいることと、家に依存すること。
仕事をすることと、仕事だけに自分の生活を預けること。
親に心配されることと、親に決めてもらうこと。
同じように見えて、少しずつ違う。
林は食器を片付けながら、その違いをまだうまく言葉にはできなかった。
ただ、自分の生活について考える時間は増えていた。
それで十分だった。




