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家にいる人  作者: 亀


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第二十七章 安定という言葉

仕事を始めて二か月が過ぎた。


林は、朝起きる時間にも慣れてきた。


以前のように目覚ましが鳴ってから長い間布団の中にいることも少なくなった。


会社で任される仕事も少しずつ増えた。


まだ分からないことはある。


それでも、誰かに聞けば教えてもらえる。


大きな失敗もしなくなった。


ある金曜日の夜、林はいつもより少し早く帰った。


玄関を開けると、母親が言った。


「おかえり。今日は早いね」


「うん。今日は定時だった」


父親も居間から顔を出した。


「仕事、慣れたか?」


「だいぶ」


「それならよかった」


林は靴を脱いだ。


夕食のとき、父親が言った。


「このまま続けられそうだな」


「たぶん」


「じゃあ、これで一安心だ」


林は箸を止めた。


「何が?」


父親は少し考えた。


「仕事だよ。仕事が決まって、続いてるんだから」


「まあ、そうだけど」


「安定するのが一番だろ」


林は黙っていた。


父親は悪いことを言っているわけではなかった。


自分が仕事を探していた頃、何度も心配していたことも知っている。


だからこそ、今の状態を喜んでいるのだと思った。


それでも、


「安定って、何なんだろうな」


と林は言った。


父親が顔を上げた。


「どういう意味だ?」


「今の仕事を続けてれば安定なのかなって」


「給料をもらって、毎月働いてるんだから、それが安定じゃないのか?」


「分からない」


「何が分からないんだ?」


林は少し考えた。


「今の仕事を十年続けたいかって聞かれたら、まだ分からない」


父親は黙った。


母親が二人を見た。


「でも、今すぐ辞めるって話じゃないんでしょう?」


「うん。辞めるつもりはないよ」


「だったら、いいんじゃない?」


林は頷いた。


父親は少し考えてから言った。


「俺はな、仕事がない時のお前を見てたから、今のほうが安心なんだ」


林は父親を見た。


「うん。それは分かる」


「だから、続けてほしいと思ってる」


「うん」


「でも、十年続けろって言ってるわけじゃない」


林は少し笑った。


「前だったら、言ってたかもしれないね」


父親も苦笑した。


「そうかもしれんな」


食事が終わった。


林が皿を片付けていると、母親が言った。


「仕事があるだけでも、大きいことよ」


「うん」


「でも、自分に合うかどうかは、働いてみないと分からないね」


林は母親を見た。


「母さんもそう思う?」


「そうよ。私だって、若い頃は分からなかったもの」


「そうなんだ」


母親は笑った。


「何でも最初から分かる人なんていないでしょう」


林は何も言わなかった。


その夜、自分の部屋に戻ってから、林は求人サイトを開いた。


以前とは違っていた。


仕事が見つからないから探しているわけではない。


今すぐ辞めたいからでもない。


ただ、他にどんな仕事があるのかを見てみたかった。


いくつかの求人を見て、画面を閉じた。


今の会社より給料が高い仕事もあった。


休日が多い仕事もあった。


逆に、条件はよく見えても仕事内容が分からないものもあった。


林はスマートフォンを机の上に置いた。


今の仕事を続けながら、別の可能性を見ることもできる。


それに気づいた。


以前は、


「今の仕事を続けるか、辞めるか」


の二つしかないと思っていた。


でも、実際にはその間にもいろいろある。


働きながら勉強する。


資格を取る。


別の仕事を調べる。


今の会社でできることを増やす。


何もしないで、しばらく様子を見る。


どれを選ぶかは、まだ決めていなかった。


翌朝。


父親は庭で植木の手入れをしていた。


林が出かけようとすると、


「今日は休みか?」


と聞いた。


「うん」


「じゃあ、ゆっくりしろ」


「うん」


林は少し歩いてから振り返った。


「父さん」


「何だ?」


「俺、今の仕事はもう少し続けてみるよ」


父親は頷いた。


「そうか」


「でも、他の仕事も見ておく」


父親は少し考えた。


それから、


「まあ、それもお前の生活だからな」


と言った。


林は笑った。


「うん」


家を出る。


まだ何も決まっていない。


それでも、以前とは違った。


仕事を続けることも、自分で選べる。


仕事を変えることも、自分で考えられる。


そして、どちらを選んでも、その結果は自分の生活につながっていく。


林は駅へ向かって歩いた。


父親が言った「安定」という言葉を、もう一度考えていた。


安定とは、何も変えないことなのか。


それとも、変わっても自分で生活を組み立てられることなのか。


まだ、答えは出なかった。

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