第二十六章 給料日の前
仕事を始めて三週間ほど経った。
林は少しずつ会社の雰囲気に慣れてきた。
朝、決まった時間に家を出る。
決まった電車に乗る。
会社に着いて、パソコンを開く。
以前よりも、仕事を覚えるのは早くなった。
それでも、まだ分からないことは多かった。
ある日の昼休み、同じ部署の先輩が言った。
「林さん、もう慣れた?」
「少しだけです」
「最初の一か月はそんなもんだよ」
「そうなんですね」
「焦らなくていいよ」
林は頷いた。
午後になって、上司から仕事を頼まれた。
「これ、今日中にお願いできる?」
「はい」
林は作業を始めた。
思ったより時間がかかった。
時計を見ると、定時まであと十五分だった。
まだ終わっていない。
周りでは、何人かが帰る準備をしていた。
林は少し焦った。
「これ、今日中じゃないと駄目ですか?」
上司に聞くと、
「できれば今日。でも、難しそうなら明日の朝でもいいよ」
と言われた。
「分かりました」
林はそのまま作業を続けた。
結局、定時から二十分ほど遅れて終わった。
「終わりました」
「ありがとう。じゃあ、今日は帰っていいよ」
林は会社を出た。
電車の中でスマートフォンを見る。
母親からメッセージが来ていた。
「今日は遅いね」
林は、
「仕事が少し長くなった」
と返した。
しばらくして、
「無理しないでね」
と返ってきた。
家に着くと、父親がテレビを見ていた。
「今日は遅かったな」
「少し仕事があった」
「残業か?」
「二十分くらい」
父親は頷いた。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
夕食を食べながら、林は今月の給料について考えていた。
まだ最初の給料は入っていない。
今月は働いた日数も少ない。
手元のお金を計算すると、思ったより余裕がなかった。
食費。
交通費。
携帯電話。
生活用品。
少しずつ使っているだけなのに、残るお金は多くない。
食事が終わったあと、林は自分の部屋で財布を開いた。
残っている金額を確認した。
「こんなもんか」
以前は、家にいる間はあまり考えなかったことだった。
働き始めてから、少しずつ気になるようになった。
給料が入れば全部解決するわけではない。
毎月、同じように働いて、同じように生活する必要がある。
林は紙に一か月の支出を書いた。
家に入れるお金。
食費。
交通費。
携帯電話。
日用品。
そして、少しだけ貯金。
全部合わせると、かなりの金額になる。
「思ったより残らないな」
その夜、父親が部屋の前を通った。
「まだ起きてるのか?」
「うん。ちょっと計算してる」
「何の?」
「給料」
父親は少し笑った。
「働き始めると、そういうのも考えるようになるな」
「うん」
父親は部屋に入ってこなかった。
「じゃあ、あまり夜更かしするなよ」
「分かった」
父親が去ったあと、林はもう一度紙を見た。
しばらく考えてから、家に入れる金額を書き直した。
少し減らした。
そして、その理由を明日、父親に話そうと思った。
翌朝。
朝食のとき、林は父親に言った。
「父さん、来月から家に入れるお金、少し少なくしてもいい?」
父親は箸を止めた。
「どうして?」
「自分の生活費と貯金を考えると、今の金額だとちょっと厳しい」
父親は黙っていた。
母親も二人を見た。
しばらくして、父親が言った。
「分かった」
林は少し驚いた。
「いいの?」
「お前が働いて、自分で計算したんだろ」
「うん」
「じゃあ、自分で考えてみればいい」
林は「ありがとう」と言った。
父親はご飯を食べながら、
「ただ、無理して貯金しなくてもいいぞ」
と言った。
「分かってる」
「最初は生活を安定させるほうが大事だろ」
「うん」
母親が笑った。
「二人とも、お金の話ばかりね」
父親も笑った。
林も笑った。
それから、いつものように仕事へ向かった。
駅まで歩く途中、林は考えていた。
仕事を見つけることだけが問題だった頃は、
仕事さえ決まれば、全部落ち着くと思っていた。
でも、実際には違った。
働けば、お金のことを考える。
お金を考えれば、生活のことを考える。
生活を考えれば、これからのことも考える。
問題がなくなったわけではない。
ただ、考える問題の種類が変わった。
林は駅の階段を上った。
今日も仕事がある。
それだけでも、以前とは違っていた。




