第十六章 言わないこと
冬が近づいていた。
朝の畑には、薄い霜が降りるようになった。
劉は朝早く起きて、庭に干していた洗濯物を取り込んだ。
周は台所で湯を沸かしていた。
二人とも、以前ほど忙しくはなかった。
子どもが家を出てから、家の中は静かになった。
静かになったというより、二人の生活に戻ったというほうが近かった。
「今日、電話するって言ってたな」
周が言った。
「そうだった?」
「昨日、そう言ってた」
劉は少し考えてから、
「じゃあ、夜でしょう」
と言った。
周は時計を見た。
まだ昼前だった。
「夜か」
それだけ言って、湯の入ったやかんを持ち上げた。
以前なら、電話を待っている間にも何度か携帯を見ることがあった。
仕事はどうなのか。
ちゃんと食べているのか。
最近帰ってこないのは忙しいからなのか。
何かあったのではないか。
そう考え始めると、いくらでも考えられた。
だが最近は、電話が来ない時間をそのままにしておくことも少しずつ増えていた。
夜になって、電話が鳴った。
「もしもし」
周が出た。
「父さん?」
「うん」
「今、帰ってきたところ」
「そうか。仕事はどうだ?」
「まあ、普通かな」
「忙しいのか?」
「少し忙しい」
周は一瞬、何か言おうとした。
そして、やめた。
以前なら、
「そんなに忙しいなら、仕事を変えたほうがいいんじゃないか」
と言っていた。
けれど、今日は言わなかった。
「ちゃんと飯食ったか」
代わりにそう聞いた。
「食べたよ」
「何食った?」
「適当に」
「適当にってなんだ」
周は笑った。
子どもも電話の向こうで笑った。
しばらく、仕事の話をした。
給料の話。
会社の同僚の話。
近くに新しい店ができたという話。
特別な話ではなかった。
周は何度か質問した。
けれど、以前のように一つの答えから次の答えを引き出そうとはしなかった。
子どもが「まあ」と言えば、
「そうか」
で終わらせた。
電話が終わる少し前、子どもが言った。
「父さん」
「ん?」
「最近、あんまり聞かなくなったね」
「何を?」
「仕事のこととか」
周は黙った。
「前は、もっといろいろ聞いてたじゃん」
「そうだったか?」
「うん」
周は少し笑った。
「まあ、お前も大人になったからな」
言ってから、自分でも少し意外だった。
昔なら、
「大人になったからって、親が心配しなくていいわけじゃない」
と言っていたかもしれない。
けれど、その言葉は出てこなかった。
子どもは少し黙ってから、
「心配してくれてるのは分かってるよ」
と言った。
「そうか」
「でも、俺も自分で考えないといけないから」
「うん」
周は短く答えた。
電話を切ったあと、周はしばらく携帯を見ていた。
劉が台所から顔を出した。
「終わった?」
「ああ」
「何の話?」
「仕事とか、いろいろ」
劉はそれ以上聞かなかった。
周も言わなかった。
二人の間に、少しだけ沈黙があった。
「前だったら、もっと言ってたでしょう」
劉が言った。
「何を?」
「仕事を変えろとか、ちゃんと考えろとか」
周は笑った。
「そうだな」
「我慢してるの?」
「いや」
周は少し考えた。
「言わなくてもいいことが、あるのかもしれない」
劉は何も言わなかった。
周もそれ以上説明しなかった。
その夜、布団に入ってから、周は昔のことを思い出した。
子どもが小さかった頃。
宿題をしている横に座って、
「ここ、違うだろ」
と言ったこと。
テストの点を見て、
「どうしてあと十点取れなかった」
と言ったこと。
友達の家に行きたいと言われて、
「駄目だ」
と言ったこと。
どれも、その時は子どものためだと思っていた。
今でも、全部が間違っていたとは思わない。
勉強をしなければならない時もある。
危ないことを止めなければならない時もある。
親が子どもに言わなければならないこともある。
ただ、それと、
子どもの人生を決めることは同じではない。
周は布団の中で天井を見た。
「言うこと」と「決めること」。
その二つの間には、思っていたより大きな違いがあった。
翌朝、周はいつものように起きた。
顔を洗い、湯を沸かし、朝食を食べた。
庭に出ると、昨日より霜が多かった。
特別なことは何も起きなかった。
けれど、その日の昼、近所の張がやってきた。
「息子から電話があった」
「そうか」
「また仕事を変えるって言ってる」
周は黙って聞いた。
張は続けた。
「何を考えてるのか分からん。親に相談もしないで決めるんだ」
周は少し考えてから、
「本人が決めたんだったら、考えて決めたんじゃないか」
と言った。
張は周を見た。
「お前までそんなこと言うのか」
「いや、俺も前は同じこと言ってたよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
周は答えなかった。
しばらくして、
「話は聞いてやればいいんじゃないか」
と言った。
張は納得したような、していないような顔をした。
「親だから心配なんだよ」
「うん」
周は頷いた。
「それは分かる」
張が帰ったあと、周は一人で庭に残った。
自分も同じだった。
心配していた。
だから、言った。
言っているうちに、心配することと決めることの境目が分からなくなった。
それは自分だけの問題ではなかった。
親から子へ。
子から、そのまた次の世代へ。
言葉は、金や家と違って、目に見えない。
けれど、知らないうちに残っていく。
「言うことを聞きなさい」
「みんなそうしている」
「お前のためだ」
そういう言葉も、残っていく。
周は庭の隅に落ちていた枯れ葉を拾った。
そして、しばらく眺めてから、ゴミ箱に入れた。
自分が子どもに何を残したのか。
それは、もう全部を確認することはできない。
ただ、これから言う言葉なら、自分で選ぶことができる。
周はそう思った。
そして家の中に戻った。
劉が、
「お茶、飲む?」
と聞いた。
「うん」
周は椅子に座った。
いつもの朝だった。
何も変わっていなかった。
それでも、以前なら言っていた言葉を、一つ言わずに済んだ。
そのことだけは、周自身にも分かっていた。




