第一百四十五章 新しい店
二月に入ると、閉まっていた修理店から工事の音が聞こえるようになった。
朝から金属を切る音がする。
周は庭で水をやりながら、時々そちらの方向を見た。
「始まったね」
劉が洗濯物を干しながら言った。
「ああ」
「何の店になるのかな」
「まだ分からない」
「またそれ」
劉は笑った。
工事は数日続いた。
古い看板が外され、入口のガラスも交換された。
ある朝、周が市場へ行く途中に見ると、店の前に新しい看板が置かれていた。
小さな食堂らしい。
「準備中」とだけ書かれている。
店の中では、若い男女が棚を組み立てていた。
周は立ち止まらず、そのまま市場へ向かった。
帰り道、店の前に戻ると、若い男が外に出ていた。
「こんにちは」
男が声をかけた。
「こんにちは」
「近所の方ですか?」
「そう」
「今度、ここで店をやります」
「何の店?」
「朝と昼の食事を出します。夜も少しだけ」
「そうか」
男は笑った。
「前は修理屋だったんですよね?」
「そうだ」
「長くやってたんですか?」
「かなり長かった」
「じゃあ、近所の人は寂しいでしょうね」
周は少し考えた。
「寂しい人もいるだろうな」
「僕らも、前の店の人からいろいろ聞きました」
「そうか」
男は店の中を振り返った。
「前の人の工具が少し残ってたんです」
「工具?」
「棚の奥にいくつか」
「使うの?」
「いや、返す予定です」
周は頷いた。
「それがいい」
男は笑った。
「店が変わっても、物は残るんですね」
「そういうこともある」
周は野菜の袋を持ち直した。
「いつから開く?」
「来週くらいです」
「じゃあ、行ってみる」
「ありがとうございます」
周は家へ帰った。
昼食のとき、劉に話した。
「新しい店、来週から開くらしい」
「何の店?」
「朝と昼の食事」
「修理店のところ?」
「そう」
「じゃあ、今度行ってみよう」
「そうだな」
午後、周は庭に出た。
枝の先に、小さな芽がいくつか出ている。
冬の終わりが近づいている。
落ちた実は、庭の隅で乾いていた。
周はそれを拾い上げた。
少し指で押すと、表面が崩れた。
「もう駄目か」
独り言を言って、そのまま土の中へ戻した。
埋めるつもりはなかった。
ただ、置く場所がほかになかった。
夕方、息子から電話が来た。
「父さん」
「うん」
「来月の休み、予定通り」
「土曜日?」
「うん。夕方くらいに着くと思う」
「分かった」
「仕事が終わってからだから、また遅くなるかもしれない」
「気をつけて帰ってこい」
「うん」
少し話してから、息子が言った。
「新しい仕事、少し慣れてきた」
「そうか」
「まだ分からないことも多いけど」
「最初から全部分かる人はいないだろ」
「そうだね」
息子は少し笑った。
「父さん、最近そういう言い方するね」
「どういう?」
「前は、もっと答えを出そうとしてた」
周は黙った。
「そうだったな」
「今は?」
「分からないことは、分からないままでいいと思ってる」
「それ、俺も最近少し分かってきた」
「そうか」
「仕事も、最初から全部決めなくてもいいんだなって」
「うん」
電話を切った。
周は庭に出たまま、しばらく空を見ていた。
昔なら、息子の仕事が決まれば、
続けるのか。
給料はどうなのか。
いつまでやるのか。
次はどうするのか。
そういうことを一つずつ聞いていた。
今は、本人が必要なときに話せばいいと思っている。
それでも、心配がなくなったわけではない。
仕事が続くか。
体を壊さないか。
無理をしていないか。
そういうことは、今でも気になる。
ただ、気になることと、本人の生活を決めることは同じではなかった。
夜、周は新しい店の前を通った。
まだ開店していない。
窓の中に椅子が並んでいる。
壁には新しい時計が掛かっていた。
昔、修理店の中にあった机はなくなっていた。
それがどこへ行ったのかは知らない。
店の前を通り過ぎようとしたとき、中から若い男が出てきた。
「周さん」
「まだやってるのか?」
「明日の仕込みです」
「大変だな」
「慣れるまでですね」
「そうだな」
男は少し笑った。
「前の店の息子さん、今は別の仕事をしてるんですよね?」
「そう聞いてる」
「この前、荷物を取りに来てました」
「そうか」
「新しい仕事、頑張ってるって言ってました」
周は頷いた。
「それならよかった」
男は店の中へ戻った。
周は家へ向かった。
家では劉が夕食を準備していた。
「今日は何かあった?」
「新しい店の人と話した」
「どうだった?」
「普通の人だった」
「普通?」
「うん」
劉は笑った。
「それだけ?」
「それだけ」
食事をしながら、劉が言った。
「昔の店も、最初は新しい店だったんだろうね」
周は箸を止めた。
「そうだろうな」
「今の人も、何年かしたら別の人になるかもしれない」
「そうかもしれない」
「そう考えると、不思議ね」
「何が?」
「同じ場所なのに、人が変わると全然違う場所になる」
周は少し考えた。
「場所が人を決めるわけじゃないからな」
劉は頷いた。
その夜、周は机の引き出しを開けた。
息子の古い鉛筆が一本入っている。
短くなった鉛筆だった。
捨てるほどでもない。
使うこともない。
周は引き出しを閉めた。
翌朝、新しい店の看板に明かりがついていた。
「本日開店」
周は市場へ向かう途中、少しだけ足を止めた。
店の中には、すでに二人の客がいた。
若い店主が忙しそうに動いている。
周はそのまま市場へ行った。
帰りに寄ろうかと思ったが、やめた。
昼に劉と一緒に来ればいい。
家に帰ると、劉が聞いた。
「新しい店、どうだった?」
「開いてた」
「じゃあ、今日行く?」
「昼に行こうか」
「うん」
二人は昼前に家を出た。
店に入ると、窓際の席が空いていた。
若い店主が、
「いらっしゃいませ」
と言った。
周と劉は並んで座った。
メニューを見ながら、劉が言った。
「何にする?」
周は少し考えた。
「これでいいんじゃないか」
「じゃあ、それにしよう」
二人は注文した。
店の奥では、以前とは違う人たちが働いていた。
けれど、窓の位置も、入口も、壁の形も昔のままだった。
周は店の中を一度見回した。
それから、出された料理を食べ始めた。
「どう?」
劉が聞いた。
周は一口食べて、
「うまい」
と言った。
劉も食べた。
「うん。悪くない」
二人はそのまま食事を続けた。
外では、冬の風がまだ冷たかった。
けれど、店の中には昼の客の声があった。
以前の店がなくなったことと、新しい店が始まったことは、同じ出来事ではない。
ただ、一つの場所で続いているだけだった。




