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家にいる人  作者: 亀


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第一百四十四章 決まったあと

李さんの息子が仕事を決めてから、数日が過ぎた。


朝の市場で会うと、李さんは少し眠そうな顔をしていた。


「周さん、おはよう」


「おはよう。息子さん、もう始まった?」


「来週からだ」


「そうだったな」


「昨日、必要なものを買いに行った」


「何を?」


「靴とか、仕事で使うものとか」


李さんは買い物袋を持ち上げた。


「結局、俺も一緒に行った」


「息子さんから頼まれた?」


「いや」


「じゃあ、自分から?」


「そう」


周は笑った。


「それならいいんじゃないか」


「でも、途中で『それは高い』とか言いそうになった」


「言った?」


「言わなかった」


李さんは少し誇らしそうに笑った。


「本人が選んだ」


「そうか」


「俺が買うわけじゃないしな」


周は頷いた。


「それなら、なおさらだ」


二人は市場の中へ入った。


李さんは魚売り場の前で足を止めた。


「息子、魚好きだったかな」


「どうだろうな」


「小さいころは好きだった」


「今は?」


「聞いてない」


周は笑った。


「じゃあ、今度聞けばいい」


「そうだな」


李さんは魚を一匹買った。


周は野菜だけ買って帰った。


家に着くと、劉が玄関を開けた。


「遅かったね」


「李さんと話してた」


「息子さん、仕事決まったんでしょう?」


「うん」


「よかったね」


「これから始まるところだ」


劉は頷いた。


「そうね」


その日は特に何も起こらなかった。


昼過ぎ、周は古い自転車を外へ出した。


先日、近所の若い男に言われたチェーンのことが気になっていた。


油を差し、ペダルを回す。


思ったより軽くなった。


そこへ、王さんが通りかかった。


「何してる?」


「自転車」


「まだ乗れる?」


「まだ乗れる」


王さんは笑った。


「俺のも最近重い」


「一度見てみればいい」


「自分で?」


「できるならな」


王さんは自転車を見た。


「修理店がなくなって困るな」


「そうだな」


「新しい店、入るのかな」


「まだ分からない」


「最近、何でも『まだ分からない』だな」


周は笑った。


「決まってないからな」


王さんも笑った。


二人で自転車を眺めた。


少しすると、王さんが言った。


「息子から電話が来た」


「仕事?」


「うん。今月、忙しいらしい」


「そうか」


「正月も仕事だったし、今月も帰れないって」


「そうか」


王さんは少し黙った。


「前なら、寂しいって言ってたと思う」


「今は?」


「昨日、電話で『無理するな』って言った」


周は頷いた。


「それで十分な日もある」


「そうだな」


王さんは自転車を押して帰っていった。


夕方、周のスマートフォンに通知が来た。


息子からだった。


「来月の休み、土曜になりそう」


周は画面を見た。


まだ「なりそう」だった。


「決まったら教えて」


と返した。


すぐに、


「うん」


と返ってきた。


周はスマートフォンを置いた。


劉が聞いた。


「帰ってくるの?」


「土曜になりそうだって」


「魚は?」


「まだ買わない」


「また?」


「まだ決まってないから」


劉は笑った。


「分かった」


夕食のあと、二人はテレビを見ていた。


ニュースでは、町の再開発について話していた。


駅の近くに新しい建物ができるらしい。


劉が言った。


「ここも変わるね」


「少しずつな」


「前の店もなくなったし」


「そうだな」


「昔からあるものが、どんどん変わる」


周はテレビを見ながら言った。


「人が変われば、使うものも変わるだろ」


「そうね」


それ以上は話さなかった。


翌朝、周は市場へ行った。


魚売り場の前で、昨日買わなかった魚を見た。


店員が、


「今日はどうする?」


と聞く。


周は少し考えた。


「今日は野菜だけ」


「息子さん、まだ?」


「まだ」


店員は笑った。


「じゃあ、また今度」


「うん」


周は市場を出た。


帰り道、閉店した修理店の前を通る。


シャッターの横に貼られていた「内覧受付中」の紙がなくなっていた。


代わりに、小さな紙が一枚貼られていた。


「改装工事のお知らせ」


周は足を止めた。


中で誰かが工事を始めているらしい。


どんな店になるのかは書かれていなかった。


周はそのまま歩いた。


家に戻ると、劉が言った。


「今日は何も買わなかったの?」


「野菜だけ」


「魚は?」


「まだ」


「そう」


劉は笑った。


「帰ってくる日が決まってからね」


「うん」


午後、工事の音が町の向こうから聞こえてきた。


ドリルの音。


金属を動かす音。


誰かが新しい場所を作っている音だった。


周は窓から外を見た。


昔あった店がなくなり、別の店になる。


働いていた人が辞め、別の人が働く。


子どもだった人が家を出て、別の場所で暮らす。


帰ってくる人もいれば、戻らない人もいる。


何かがなくなると、そこには別の何かが入ってくることがある。


ただ、それがいつになるのかは分からない。


夕方、息子から電話が来た。


「父さん」


「うん」


「来月の休み、決まった」


「土曜日?」


「うん」


「帰ってくる?」


「一泊だけ」


「分かった」


「母さんに言って」


「分かった」


電話を切った。


周が台所へ行く。


「帰ってくるって」


劉は振り返った。


「いつ?」


「来月の土曜日」


「何時?」


「まだ分からない」


「じゃあ、魚は?」


「当日買えばいい」


劉は笑った。


「分かった」


それから少しして、


「今度は何を作ろうか」


と聞いた。


周は考えた。


「魚だけでいいんじゃないか」


「また魚?」


「本人が好きだから」


「じゃあ、そうしよう」


二人で笑った。


夜、周は庭へ出た。


落ちた実は、庭の隅に置いたままだった。


少し乾いている。


周は拾い上げた。


今度はそのまま土の上に置いた。


植えることはしなかった。


庭の枝には、もう実はない。


けれど、枝の先には小さな芽がいくつか見えていた。


周はそれを見て、


「まだ早いな」


と一人で呟いた。


何の芽なのか。


春になれば分かるかもしれない。


分からないまま終わるかもしれない。


周は家へ戻った。


玄関を閉める。


来月、息子が帰ってくる。


そのことだけは、もう決まっていた。


それ以外のことは、その日になってから考えればいい。


台所では、劉が食器を洗っていた。


水の音が、静かな家の中に響いていた。

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