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家にいる人  作者: 亀


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第一百四十二章 言わなかったこと

正月が終わると、町は少しずつ元の生活に戻っていった。


商店街の店が一軒ずつ開き、朝の市場にも人が戻ってきた。


周はいつもの時間に家を出た。


途中、閉まったままの修理店の前を通った。


「テナント募集」の紙はまだ残っている。


その隣の店では、主人が店先を掃いていた。


「周さん、おはよう」


「おはよう」


「今年もよろしく」


「こちらこそ」


それだけの挨拶をして、周は市場へ向かった。


市場では、正月に帰ってこなかった息子の話をする人もいた。


「うちの子も仕事だったよ」


「正月くらい休めばいいのにね」


そんな声が聞こえた。


周は聞こえてきた話を、そのまま受け取ることはしなかった。


仕事の都合なのか。


本人が帰りたくなかったのか。


別の理由があるのか。


外からは分からない。


野菜を買って帰る途中、李さんに会った。


「周さん」


「おはよう」


「息子、昨日面接に行った」


「そうか」


「まだ結果は出てない」


「そうか」


李さんは少し嬉しそうだった。


「前なら、面接に行くって聞いたら、俺もいろいろ言ってたと思う」


「今は?」


「何も言わなかった」


「それで?」


「本人から話してくれた」


周は笑った。


「それならいいじゃないか」


「うん」


李さんは少し歩いてから言った。


「でも、聞きたいんだよな」


「何を?」


「どうして仕事を辞めたのか」


周は黙った。


「前の仕事で何があったのか。俺が何か間違ってたのか」


「本人に聞けばいいんじゃないか」


「聞いてもいいのかな」


「聞くことと、答えを要求することは違うだろ」


李さんは周を見た。


「どういうこと?」


「『話したければ聞くよ』と言うのと、『親なんだから全部話せ』と言うのは違う」


李さんは少し考えた。


「なるほどな」


「でも、俺もできてるわけじゃない」


「周さんも?」


「俺だって、前は聞いてた」


「息子さんに?」


「ああ」


李さんは笑った。


「じゃあ、同じだな」


「そうだな」


二人は市場の前で別れた。


昼過ぎ、周は家の物置を整理した。


古い工具。


壊れた扇風機。


使わなくなった箱。


その奥から、小さなノートが出てきた。


表紙には息子の名前が書かれている。


小学校のころのものだった。


中には計算問題が並んでいた。


周はページをめくった。


赤い丸。


赤いバツ。


自分の字だった。


「ここ、もう一回やれ」


そんな短い書き込みもある。


周はしばらく見ていた。


劉が物置の入口から顔を出した。


「何?」


「昔のノート」


「まだあったの?」


「そうみたいだ」


劉が近づいてくる。


「捨てる?」


周はノートを閉じた。


「分からない」


「また?」


「本人に聞いてからにする」


「もう大人なのに?」


「大人だから、自分で決めてもらえばいい」


劉は少し笑った。


「そうね」


周はノートを箱に戻した。


その日の夜、息子から電話が来た。


「父さん」


「うん」


「面接、受けてきた」


「どうだった?」


「悪くなかった」


「それならよかったな」


「でも、まだ分からない」


「結果が出るまで待てばいい」


「うん」


少し沈黙があった。


「父さん、聞きたいことある?」


周は一瞬考えた。


「今はない」


息子が笑った。


「本当に?」


「うん」


「昔だったら、いろいろ聞いてたよね」


「そうだな」


「何で変わったの?」


周は窓の外を見た。


「聞いても分からないことがあるって、分かったからかな」


息子は少し黙った。


「それ、俺も分かる」


「そうか」


「聞かれたら答えられることもあるけど、答えたくないこともある」


「うん」


「でも、答えたくないって言うのも難しい」


周は黙っていた。


「父さんに悪いと思うから」


「悪く思わなくていい」


「でも、親だから」


「親でも、全部知る必要はないだろ」


息子は少し笑った。


「最近、父さんがそういうこと言うと変な感じがする」


「何でだ?」


「昔は逆だったから」


周も笑った。


「そうだな」


電話の向こうで、息子が息を吐いた。


「面接の結果が出たら、また連絡する」


「分かった」


「もし駄目だったら?」


「また探せばいい」


「簡単に言うね」


「探すのはお前だからな」


「そうだね」


二人は笑った。


電話が切れた。


周はスマートフォンを机に置いた。


以前なら、「もし駄目だったら次はどうする」と考えていた。


今は、結果が出てから考えればいいと思った。


翌朝、李さんが家の前を通った。


「周さん」


「おはよう」


「昨日、息子と少し話した」


「そうか」


「仕事を辞めた理由を聞こうと思ったけど、やめた」


「どうして?」


「本人が話し始めるまで待とうと思った」


周は頷いた。


「それでいいんじゃないか」


「ただな」


「うん」


「何も聞かないでいると、自分が何もしてないような気がする」


周は少し考えた。


「分かる」


「親って、何かしないといけないと思うんだな」


「そうかもしれない」


「でも、何もしないことが必要なときもある」


「そうだな」


李さんはしばらく立っていた。


「ありがとう」


「何が?」


「話を聞いてくれて」


「それくらいならできる」


李さんは笑って帰っていった。


周は門を閉めた。


庭を見る。


小さな実が、まだ枝に残っていた。


いつまで残るのかは分からない。


周はそれを見てから、家の中へ戻った。


机の上には、昨日見つけた古いノートが置いてあった。


しばらく眺めてから、周は箱に戻した。


捨てなかった。


残すと決めたわけでもない。


ただ、今日はまだ捨てなかった。


外では、朝の市場へ向かう人の足音が聞こえていた。


町はいつものように動いていた。


誰かは仕事へ行き、


誰かは仕事を探し、


誰かは何も決めないまま一日を過ごしている。


周もまた、その中の一人だった。


その日、周は古いノートについて、息子には何も言わなかった。

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