第一百四十章 言わなかった理由
十二月の終わりが近づいていた。
朝、周が市場へ向かって歩いていると、李さんの息子と会った。
「周さん、おはようございます」
「おはよう。今日は休みか?」
「うん。午後から用事があるけど、それまでは休み」
二人は並んで歩いた。
以前より少し顔色がよくなっているように見えた。
「仕事は?」
「まだ探してる」
「そうか」
「一つ、決まりそうだったんだけど、やめた」
「条件が合わなかった?」
「時間がね」
「そうか」
それ以上、周は聞かなかった。
李さんの息子は少し歩いてから言った。
「父には、まだ詳しく話してない」
「どうして?」
「話すと、すぐに『じゃあ次はどうするんだ』って聞かれるから」
周は頷いた。
「それは疲れるな」
「父も悪気はないんだけど」
「うん」
「何も決まってないときに、次のことを聞かれると、答えようがないんだよ」
「分かる」
「だから、決まってから話そうと思ってる」
周は市場の入口で足を止めた。
「それでいいんじゃないか」
李さんの息子は少し笑った。
「周さんは、前と違いますね」
「何が?」
「前なら、『親にはちゃんと話したほうがいい』って言ってた気がする」
周も笑った。
「昔はそう言ってたかもしれない」
「今は?」
「話したくなったときに話せばいいと思う」
「うん」
「ただ、金を借りるとか、助けてもらうとか、そういうことなら必要なことは伝えたほうがいい」
「それは分かってる」
「なら、それでいい」
二人は別れた。
周は魚を買わず、野菜だけ買って帰った。
家では劉が年末の掃除をしていた。
「市場、混んでた?」
「少し」
「李さんの息子に会った」
「仕事、決まった?」
「まだ」
「まだ探してるのね」
「うん」
劉は少し考えた。
「李さんは何て言ってる?」
「詳しくは知らないみたいだ」
「親なのに?」
周は手を止めた。
「親だから、全部知ってるとは限らないだろ」
「そうね」
劉は掃除を続けた。
午後、周は古い写真を整理した。
写真の中には、息子が小学生のころのものもあった。
運動会。
学校の前。
夏休みに川へ行ったとき。
どれも、撮った本人には何気ない写真だった。
周は一枚を裏返した。
日付だけが書かれている。
その日、自分が何を言ったのかは覚えていなかった。
けれど、写真の裏の日付を見ると、その日のことを少し思い出した。
息子が宿題をしていなかった。
周は怒った。
息子は黙っていた。
そのあと、二人とも何も言わなくなった。
それだけだった。
周は写真を元の箱へ戻した。
夕方、息子から電話が来た。
「父さん」
「うん」
「今、少し大丈夫?」
「大丈夫だ」
「新しい仕事、来週から本格的に始まる」
「そうか」
「研修は終わった」
「どうだった?」
「疲れたけど、何とか」
「そうか」
息子は少し黙った。
「父さん」
「ん?」
「前の仕事を辞めたときさ」
「うん」
「父さんが電話でいろいろ言ったの、覚えてる?」
周はすぐには答えなかった。
「覚えてる」
「俺、あのとき、何も言い返せなかった」
「そうだったな」
「自分でも、どうすればいいか分からなかったから」
周は黙って聞いた。
「でも、父さんに怒られると、仕事を辞めたことより、父さんに説明できないことのほうが苦しくなってた」
周は目を閉じた。
「そうだったのか」
「うん」
「悪かった」
短い言葉だった。
息子はしばらく何も言わなかった。
「……うん」
それだけだった。
周は続けなかった。
「許してくれ」とも言わなかった。
「もう忘れてくれ」とも言わなかった。
息子が何を感じているのか、それ以上は聞かなかった。
少しして、息子が言った。
「でも、今は話しやすいよ」
「そうか」
「前より」
「それならよかった」
「うん」
電話の向こうで、何か物音がした。
「もう寝る?」
「いや、まだ」
「明日も早いんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ、無理するな」
「父さんも」
「分かった」
電話が切れた。
周はスマートフォンを机の上に置いた。
劉が隣の部屋から出てきた。
「息子?」
「ああ」
「何かあった?」
「昔の仕事の話」
「そう」
劉はそれ以上聞かなかった。
周も話さなかった。
その夜、周は一人で古い写真の箱を閉じた。
謝るということは、過去を消すことではない。
何かを言えば、相手の記憶が変わるわけでもない。
それでも、言わなかった言葉を一つ口にするだけで、その後の会話が少し変わることはある。
周には、それだけが分かってきた。
翌朝。
市場へ行く途中、李さんに会った。
「周さん」
「おはよう」
「息子、何か言ってた?」
「何のこと?」
「仕事のこと」
周は李さんを見た。
「俺には詳しく話してないよ」
「そうか」
「まだ決まってないんだろ」
「そうらしい」
李さんは少し困ったように笑った。
「俺、何か言ったほうがいいのかな」
周はすぐには答えなかった。
「何を言いたいの?」
「……分からない」
「じゃあ、今は言わなくてもいいんじゃないか」
李さんは黙った。
「謝りたいとか、聞きたいことがあるなら、言葉にできるようになってからでも遅くないだろ」
「そうかな」
「たぶん」
李さんは苦笑した。
「周さん、最近『分からない』が多いな」
「実際、分からないことが多いからな」
二人は笑った。
市場の入口で別れた。
周は野菜を買った。
帰り道、昔の写真のことを思い出した。
覚えていないこと。
言わなかったこと。
言い過ぎたこと。
その全部が、家族の時間の中に残っている。
それでも、今日の朝は今日の朝だった。
家へ帰れば、劉が昼食を作っている。
息子は遠くで仕事をしている。
李さんの息子は、まだ仕事を探している。
それぞれの生活は、昨日の続きをそのまま進んでいた。
周は買った野菜を台所へ置いた。
「今日は何にする?」
劉が聞いた。
「何でもいい」
「じゃあ、これ使う」
劉が野菜を一つ取り出した。
周は頷いた。
外では風が吹いていた。
庭の小さな実が、枝の上で少し揺れた。
まだ落ちなかった。




