第一百三十九章 聞かなかった話
息子が帰ってから、四日が過ぎた。
周は朝、庭の水やりをしていた。
小さな実はまだ枝に残っている。
葉の先に、昨夜の雨が少し残っていた。
周はホースを止め、しばらく庭を見た。
後ろから劉の声がした。
「まだある?」
「ある」
「落ちないね」
「そのうち落ちるだろ」
「いつ?」
「分からない」
劉は笑った。
「またそれ」
周も笑った。
午前中、周は市場へ行った。
魚売り場の前を通ると、店員が声をかけてきた。
「息子さん、帰った?」
「帰ったよ」
「よかったね」
「うん」
それだけ話して、周は野菜を選んだ。
帰り道、修理店だった場所の前を通った。
シャッターはまだ閉まっている。
「テナント募集」の紙も、そのままだった。
以前そこで働いていた張の息子が、新しい仕事を始めたという話を、周は少し前に聞いていた。
それ以上のことは知らない。
周は店の前を通り過ぎた。
昼過ぎ、張本人から電話が来た。
「周さん」
「張さん、どうした?」
「息子から連絡があった」
「新しい仕事?」
「うん。最初の給料が出たらしい」
「そうか」
「前より少し給料がいいらしい」
「それはよかったな」
張は少し黙った。
「でも、仕事の時間が変わったって」
「そうか」
「朝が早いらしい」
「体は大丈夫なのか?」
「本人は大丈夫だって」
「じゃあ、今はそれでいいんじゃないか」
「そうだな」
張は笑った。
「前なら、俺も『そんな仕事やめろ』って言ってたかもしれない」
「今は?」
「まだ何も言ってない」
周は、
「そうか」
とだけ答えた。
張は少し話してから電話を切った。
夕方、周が新聞を読んでいると、劉がテレビを見ながら言った。
「近所の王さんの娘、仕事辞めたって」
周は新聞から顔を上げた。
「誰から聞いた?」
「市場で」
「本人から?」
「いや、隣の人が言ってた」
周は新聞へ目を戻した。
「じゃあ、まだ分からないな」
「でも、辞めたって言ってたよ」
「本人が言ったわけじゃないんだろ」
「そうだけど」
劉は少し不満そうだった。
「前にも違ってたじゃない」
「そうだったな」
「学校の話もそうだった」
「うん」
テレビの音だけがしばらく続いた。
劉が言った。
「じゃあ、誰かに聞いてみる?」
「そこまでしなくていいだろ」
「どうして?」
「本人が必要なら話すだろ」
劉は少し考えた。
「昔だったら、私もすぐ人に聞いてたね」
「俺も聞いてた」
「そうね」
それ以上は話さなかった。
夜になって、息子からメッセージが来た。
「今日、仕事で少し遅くなった」
周は、
「お疲れさん」
と返した。
しばらくして、もう一通来た。
「新しいところ、まだ慣れない」
周は画面を見た。
「最初はそんなものだろ」
送信してから、少し考えた。
それだけでよかった。
以前なら、
何が大変なのか。
誰が教えてくれないのか。
給料はいくらなのか。
続けられそうなのか。
そんなことを続けて聞いていたかもしれない。
今は聞かなかった。
少しして息子から、
「うん」
とだけ返ってきた。
それからしばらく何も来なかった。
周もスマートフォンを置いた。
翌朝、息子から電話があった。
「昨日、寝落ちした」
「そうか」
「父さん、何か言ってた?」
「いや」
「怒ってない?」
「何で怒るんだ」
息子が笑った。
「前だったら、返事がないと何回も電話してたから」
周は少し黙った。
「そうだったな」
「今はしないんだね」
「寝てるかもしれないだろ」
「うん」
「仕事もあるしな」
息子は少し黙ってから言った。
「そのほうが楽かも」
「そうか」
「別に嫌だったわけじゃないけど、何か返さないといけない感じがしてた」
周は窓の外を見た。
「そうだったのか」
「うん」
「言ってくれればよかったのに」
「当時は言えなかった」
「そうか」
二人とも黙った。
周は、そこで話を終わらせてもいいと思った。
けれど、息子が先に口を開いた。
「父さん」
「ん?」
「昔のこと、全部覚えてるわけじゃないけど」
「うん」
「覚えてることは、やっぱり残ってるんだよ」
周は何も言わなかった。
「だからって、今どうこうしてほしいわけじゃない」
「分かった」
「ただ、そういうこともあるって知っておいて」
「分かった」
それだけだった。
電話を切ったあと、周はしばらく椅子に座っていた。
昔、自分は子どもに何かを言えば、それで終わったと思っていた。
言ったことは消える。
その場が終われば、次の日は次の日。
大人になれば忘れる。
そう思っていた。
けれど、相手の中には残っていることがある。
そのことを、周は最近になって少しずつ知った。
劉が台所から出てきた。
「誰?」
「息子」
「何て?」
「仕事の話」
「大変そう?」
「まだ慣れてないみたいだ」
「辞めるって?」
「そんな話はしてない」
劉は頷いた。
「そう」
それだけだった。
午後、周は庭へ出た。
小さな実を見る。
まだ枝に残っている。
周は椅子を持ってきて、庭の端に置いた。
そこへ座った。
風が吹くたび、葉が少し揺れる。
周は実を見ながら、息子の電話を思い出した。
「覚えてることは、残ってるんだよ」
自分にも、覚えていることはあった。
上海から帰ってきた日のこと。
金がなくて何も買えなかったこと。
息子の小さな机。
数学の答案。
何度も同じことを言った日。
電話で言い過ぎた日。
そして、何もなかったように翌日を迎えた日。
周は、それらを一つずつ思い出した。
謝るべきだったのかもしれない。
そう思うこともある。
けれど、今さら一つずつ言葉にすることができるのかは分からない。
周は立ち上がった。
庭の水道を閉める。
小さな実は、まだ落ちなかった。
家の中へ戻ると、劉が昼食を用意していた。
「食べる?」
「うん」
二人は食卓についた。
昔の話はしなかった。
それでも、周の中では一つだけ、前とは違うものが残っていた。
知らないことを、すぐに埋めなくてもいい。
聞かれなかったことを、勝手に決めなくてもいい。
そして、自分が覚えていないことを、相手も忘れているとは限らない。
周は箸を取った。
「いただきます」
劉も続けた。
「いただきます」
外では、冬の風が庭の葉を揺らしていた。




