第十四章 あなたのため
家を買ってから、子どもが実家に帰ってくる回数は少し減った。
仕事が忙しいということもあった。
新しい家の片づけもある。
それに、夫婦には夫婦の生活がある。
周はそれを頭では分かっていた。
それでも、電話が来ると嬉しかった。
「今度の休み、帰るのか?」
「まだ分からない。仕事の予定を見てから。」
「そうか。」
それだけで電話を切ることもあった。
昔なら、周はそのあとにいくつも質問を続けていた。
仕事はどうだ。
給料はどうだ。
家のローンは大丈夫か。
食事はちゃんと食べているか。
奥さんとはうまくやっているか。
最近、何か困ったことはないか。
今は、少しだけ言葉を減らしていた。
それでも、心配がなくなったわけではなかった。
ある週末、子どもが帰ってきた。
夕方、三人で食卓を囲んだ。
劉が料理を運びながら言った。
「最近、顔が少し疲れてない?」
「そう?」
「痩せた気がする。」
子どもは笑った。
「仕事がちょっと忙しいだけだよ。」
周は箸を止めた。
「仕事、そんなに大変なのか?」
「まあ、普通だよ。」
「無理してないか?」
「してない。」
周は黙っていた。
しばらくして、また聞いた。
「今の仕事、そんなに続ける必要があるのか?」
子どもが顔を上げた。
「どういう意味?」
「いや……」
周は少し考えてから言った。
「体を壊すくらいなら、仕事を変えてもいいんじゃないかと思ってな。」
「分かってるよ。」
「家も買ったばかりだし、今は安定してるほうがいいだろ。」
「うん。」
「だったら、無理する必要はない。」
子どもは箸を置いた。
「父さん。」
「ん?」
「それ、僕のために言ってるんだよね?」
「当たり前だろ。」
周は少し笑った。
「親が子どもの心配をするのは普通だ。」
子どもも笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「うん。分かってる。」
「じゃあ、何だ?」
「いや……」
子どもは少し黙った。
「父さんが僕のことを心配してくれてるのは分かってる。」
「ならいいじゃないか。」
「でも。」
子どもは言葉を探した。
「父さんが僕にとって何がいいのかを、全部分かってるわけじゃないと思う。」
食卓が静かになった。
劉が二人を見た。
周は怒らなかった。
ただ、少しだけ驚いた顔をした。
「俺は、お前より長く生きてる。」
「うん。」
「いろんなことを見てきた。」
「それも分かってる。」
「だから言ってるんだ。」
「うん。」
子どもは頷いた。
「でも、僕は父さんとは違う人生を生きてる。」
周は返事をしなかった。
その言葉は、以前にも聞いたことがある気がした。
学校を選ぶときもそうだった。
仕事を変えるときもそうだった。
家を買うときもそうだった。
そのたびに周は、
「自分で責任を取れるのか」
と聞いてきた。
そして子どもは、そのたびに、
「自分で考える」
と言っていた。
昔の周なら、そこで話を終わらせなかった。
「親の言うことを聞け。」
「俺はお前のことを考えている。」
「お前のために言っているんだ。」
そう言っていた。
今も、言いたい言葉はあった。
しかし、口から出てこなかった。
劉が静かに言った。
「お父さんは、悪いことを言ってるつもりじゃないのよ。」
「分かってる。」
子どもは答えた。
「僕も、父さんが悪いって言ってるわけじゃない。」
周は子どもの顔を見た。
「じゃあ、何が言いたいんだ?」
「父さんが僕のためだと思ってることと、僕が自分に必要だと思ってることが、同じとは限らないってこと。」
周は黙った。
窓の外では、近所の家から犬の鳴き声が聞こえた。
しばらくして、周は言った。
「……そういうことか。」
それ以上は言わなかった。
その夜、子どもが帰ったあと、周は一人で居間に座っていた。
テレビはついていたが、ほとんど見ていなかった。
劉が湯を持ってきた。
「まだ考えてるの?」
「別に。」
「考えてる顔してるよ。」
周は少し笑った。
「俺は、あいつのためにやってきたつもりなんだけどな。」
「それは、あの子も分かってると思う。」
「じゃあ、何でこうなるんだろうな。」
劉はすぐには答えなかった。
「私たちが欲しいものと、あの子が欲しいものが違うからじゃない?」
周は湯を飲んだ。
「親だから、子どもにいいものをあげたいと思うだろ。」
「そうね。」
「でも、それが本当にいいものかどうかは……」
周はそこで言葉を止めた。
自分でも、その先が分からなかった。
子どもが小さいころは簡単だった。
熱が出たら病院へ連れていく。
学校に必要なものがあれば買う。
お金が足りなければ働く。
勉強ができなければ教える。
危ないことをしようとすれば止める。
それでよかった。
けれど、子どもが大人になった今は違う。
何が危険なのか。
何が必要なのか。
何が幸せなのか。
それを決めるのは、もう親だけではなかった。
周は昔、自分の父親に言われた言葉を思い出した。
「親の言うことを聞けばいい。」
当時は、それが嫌だった。
それでも、自分が父親になってから、似たような言葉を何度も使っていた。
「俺はお前のために言ってる。」
その言葉を、今まで疑ったことはなかった。
けれど、その夜初めて、
「本当に、お前のためだけだったのか」
と考えた。
自分が安心したかっただけではないのか。
自分の知っている道を歩いてほしかっただけではないのか。
自分が苦労した分、子どもには同じ苦労をさせたくなかっただけではないのか。
そして、その「苦労させたくない」という気持ちの中に、
「自分の言う通りにしてほしい」
という気持ちが混ざっていなかったか。
周は答えを出さなかった。
出せるほど簡単なことではなかった。
ただ、その日から少しだけ、言葉を選ぶようになった。
次に電話をしたときも、仕事のことを聞いた。
「最近、どうだ?」
「まあまあ。」
「そうか。」
それから少し黙って、
「無理するなよ。」
と言った。
子どもは笑った。
「分かってる。」
「それと……」
周は一瞬、いつもの言葉を言いそうになった。
「仕事、変えたほうがいい」
という言葉だった。
しかし、飲み込んだ。
「いや。何でもない。」
電話の向こうで、子どもが少し笑った。
「父さん、何か言おうとしたでしょ。」
「別に。」
「まあいいけど。」
「お前も、自分で考えろ。」
「うん。」
電話を切ったあと、周はしばらく携帯を見ていた。
考え方が変わったわけではない。
子どもの選択に賛成したわけでもない。
ただ、
自分が正しいと思うことと、子どもが選ぶことは、別の話なのかもしれない。
そのことを、少しだけ考えられるようになった。
それだけだった。
家族の中では、まだ何も終わっていなかった。
それぞれの考えも、それぞれの不満も残っていた。
ただ、同じ家族だからといって、同じ人生を生きる必要はない。
周は、まだその意味を全部理解していたわけではなかった。
それでも少しずつ、
「心配すること」と「決めること」は違うのだと、
考え始めていた。




