第十三章 二つの家
子どもが家を出てから、周と劉の生活は少しずつ元に戻っていった。
朝は二人で起きる。
昼はそれぞれの仕事をする。
夜になれば、一緒に食事をする。
昔と同じ生活だった。
けれど、昔とは違っていた。
食卓に並べる料理の量が減った。
米を炊く量も減った。
洗濯物も少なくなった。
子どもの部屋は、ほとんど使われなくなった。
劉は時々、そこへ入って掃除をした。
「もう掃除しなくてもいいんじゃないか。」
周が言うと、
「帰ってきたときに汚れてたら嫌でしょう。」
「帰ってくるかどうかも分からないぞ。」
「帰ってくるよ。」
劉はそう言って、床を掃いた。
周は何も言わなかった。
子どもからの電話は、月に何度か来た。
仕事の話。
天気の話。
近所であったこと。
夫婦で見たテレビの話。
大きな出来事があるわけではない。
それでも、電話が来ると周は少し嬉しかった。
ただ、以前のように細かく聞くことはなくなった。
「元気か?」
「元気。」
「仕事は?」
「まあまあ。」
「そうか。」
それで終わることも多かった。
ある日、子どもから電話が来た。
「お父さん、今度の休み、そっちに帰ろうかな。」
周は少し驚いた。
「本当か?」
「うん。」
「じゃあ、何か食べたいものあるか?」
「何でもいいよ。」
「何でもいいっていうのが一番困るんだ。」
子どもが電話の向こうで笑った。
「じゃあ、お父さんが作れるもの。」
「俺は料理なんかできないだろ。」
「じゃあ、お母さんに任せて。」
周も笑った。
電話を切ったあと、劉に伝えた。
「帰ってくるって。」
劉は嬉しそうに言った。
「じゃあ、何か買っておかないと。」
その日から、二人は少しずつ準備を始めた。
魚を買った。
肉も買った。
子どもの好きだった菓子も買った。
周はそれを見ながら言った。
「そんなに買っても食べきれないぞ。」
「余ったら私たちが食べればいいでしょう。」
「そうか。」
結局、二人とも楽しみにしていた。
帰ってきたのは土曜日の午後だった。
子どもは一人だった。
配偶者は仕事があるらしい。
玄関に入ると、昔と同じように靴を脱いだ。
「ただいま。」
劉が笑った。
「おかえり。」
周も言った。
「疲れたか?」
「ちょっと。」
「飯、食うか?」
「うん。」
昔と同じような会話だった。
食卓を囲むと、三人でいろいろな話をした。
仕事。
昔の同級生。
村の人たち。
親戚。
近所の家。
気づけば、二時間近く話していた。
その途中で、周が聞いた。
「家のほうはどうなんだ?」
子どもは少し考えてから答えた。
「まあ、普通。」
「何か問題はないか?」
「ないよ。」
「本当に?」
「本当に。」
周はそれ以上聞かなかった。
以前なら、そこから詳しく聞いていた。
夫婦の関係。
仕事の不満。
金のこと。
家のこと。
何か問題があるなら、自分が解決しなければならないと思っていた。
今は、少し違う。
問題があるとしても、それを話すかどうかは本人が決めることだと思えるようになってきた。
夜になり、子どもは昔の部屋で寝た。
周と劉は居間に残った。
劉が言った。
「大きくなったね。」
「もう大人だ。」
「子どもの頃は、ずっと私たちの後ろにいたのに。」
周は笑った。
「お前が何でも世話してたからな。」
「あなたもよ。」
「俺は金を出してただけだ。」
劉は少し笑った。
「それだけじゃないでしょう。」
周は返事をしなかった。
翌朝、子どもが起きてきた。
朝食を食べながら、突然言った。
「家を買おうと思ってる。」
周は箸を止めた。
「今の家じゃなくて?」
「うん。二人で相談してる。」
「どこに?」
子どもが場所を言った。
周は少し考えた。
「そこなら仕事にも近いな。」
「うん。」
「金は足りるのか?」
子どもは笑った。
「またそれ?」
周も笑った。
「親だからな。」
「分かってる。」
子どもは続けた。
「でも、今回は自分たちでやる。」
周は黙った。
「お父さんに頼るつもりはない。」
「そうか。」
「前に家のことで助けてもらったから、今回は自分たちでやりたい。」
周は頷いた。
「分かった。」
それ以上は言わなかった。
けれど、子どもが帰ったあと、周は一人で考えた。
自分には貯金がある。
少しなら出せる。
出せば、楽になるだろう。
それくらいの金なら、何とかなる。
そう思った。
しかし、電話はしなかった。
劉が言った。
「出したい?」
「まあな。」
「でも、頼まれてないでしょう。」
「……そうだな。」
「だったら、今回は任せてあげればいい。」
周はしばらく黙っていた。
「分かってる。」
その言葉は以前より自然に出るようになっていた。
数か月後、子どもから電話があった。
「家、決まった。」
「そうか。」
「二人で買った。」
「よかったな。」
「うん。」
「金は大丈夫か?」
「大丈夫。」
「そうか。」
周はそこで止めた。
聞きたいことはいくらでもあった。
どんな家なのか。
ローンはいくらなのか。
毎月いくら払うのか。
何年かかるのか。
けれど、聞かなかった。
子どもが必要なら話すだろう。
そう思った。
電話を切ったあと、劉が聞いた。
「どうだった?」
「家を買ったって。」
「へえ。」
「二人で買ったらしい。」
「よかったね。」
周は頷いた。
「うん。」
それから少しして、周は言った。
「俺、何もしてないな。」
劉は笑った。
「何もしないのも、親ができることじゃない?」
周は苦笑した。
「難しいな。」
「何が?」
「何もしないっていうのが。」
劉は少し考えた。
「あなたは今まで、何かしてあげることで家族を守ろうとしてきたでしょう。」
「そうだな。」
「だから、何もしないと、守ってないように感じるんじゃない?」
周は黙った。
その通りだった。
働く。
金を出す。
決める。
注意する。
問題を解決する。
それが自分にとっての「家族を守る」だった。
何もしない。
任せる。
待つ。
それも家族を守ることになるのか。
周には、まだよく分からなかった。
その夜、二人でテレビを見ていると、子どもから写真が送られてきた。
新しい家だった。
まだ家具が少ない。
段ボールがいくつか置いてある。
窓の近くに小さなテーブルがある。
周は写真をしばらく見ていた。
「どうしたの?」
劉が聞く。
「何でもない。」
周は写真を保存した。
そして、短い返事を送った。
「新しい家、よかったな。」
しばらくして、返事が来た。
「ありがとう。」
周は携帯を置いた。
二つの家は、もう別々だった。
同じ屋根の下で暮らすことはなくなった。
食卓を毎日一緒に囲むこともない。
何かを決めるときも、それぞれが自分で決める。
それでも、家族であることは変わらない。
周はそのことを、少しずつ理解し始めていた。
家族だから近くにいなければならないわけではない。
家族だから、相手の人生を決めていいわけでもない。
けれど、困ったときには頼っていい。
頼られたら、できる範囲で助ければいい。
その距離を、周はまだ覚えている途中だった。




