第十二章 帰ってこない理由
子どもが仕事を辞めたという話をしてから、しばらく連絡が減った。
周は何度か電話をかけようと思った。
けれど、やめた。
電話をすれば、また仕事のことを聞いてしまう気がした。
「どうなった?」
「次の仕事は決まったのか?」
「生活は大丈夫なのか?」
自分でも分かっていた。
心配しているだけのつもりでも、聞き方によっては問い詰めているようになる。
だから、しばらく待つことにした。
一か月ほどして、子どもから電話があった。
「仕事、決まった。」
周は少し安心した。
「どんな仕事だ?」
「前とは違う仕事。」
「給料は?」
言ったあと、周は口を閉じた。
また聞いてしまった。
電話の向こうで、子どもが少し笑った。
「前よりは少ない。」
「そうか。」
それ以上、周は聞かなかった。
「いつから?」
「来月から。」
「そうか。」
短い会話だった。
電話を切ったあと、周は劉に言った。
「仕事、決まったって。」
「よかったね。」
「ああ。」
「何の仕事?」
「そこまでは聞かなかった。」
劉が少し驚いた。
「珍しいね。」
周は笑った。
「聞きすぎると、嫌がるだろ。」
劉は何も言わなかった。
以前なら、周は細かいことまで聞いていた。
どこで働くのか。
誰と働くのか。
給料はいくらか。
住む場所はどうするのか。
いつ帰ってくるのか。
何かあれば、自分が何とかしなければならないと思っていた。
今でも心配はしている。
ただ、心配だからといって、全部知る必要があるのか。
最近、周はそう考えることが増えていた。
春になった。
子どもは一度だけ帰ってきた。
結婚してから初めての帰省だった。
昔と同じように、劉は朝から料理を作った。
魚を買い、肉を買い、野菜を多めに用意した。
「そんなに作らなくても食べきれないよ。」
周が言った。
劉は答えた。
「帰ってくるのが久しぶりなんだから。」
食卓には料理が並んだ。
子どもは仕事の話を少しした。
前の会社を辞めた理由。
新しい仕事のこと。
今住んでいる部屋のこと。
夫婦二人で生活していること。
周は黙って聞いていた。
途中で何度か質問したくなった。
けれど、聞く前に一度考えた。
今聞く必要があるか。
そのまま黙った。
劉が子どもに聞いた。
「二人で暮らして、大変じゃない?」
「大変だけど、何とかなるよ。」
「喧嘩はする?」
子どもが笑った。
「するよ。」
「どっちが先に謝るの?」
「そのときによる。」
周も笑った。
「それならいい。」
子どもが父親を見る。
「何が?」
「喧嘩するくらいでいいんだ。」
「何それ。」
周は箸を持ったまま言った。
「一緒に暮らせば、意見が違うこともある。」
自分で言ってから、周は少し不思議な気持ちになった。
昔、自分と劉も何度も喧嘩した。
今でもする。
金のこと。
親戚のこと。
家のこと。
子どものこと。
昔のことまで出てくる。
それでも、一緒に暮らしている。
子どもは何も言わずにご飯を食べた。
食事が終わると、周は台所へ行った。
劉が皿を洗っていた。
「今日はあまり聞かなかったね。」
「何を?」
「仕事のこと。」
周は少し考えた。
「聞いたって、本人が決めることだろ。」
劉は手を止めた。
「前だったら、全部聞いてた。」
「そうだったな。」
「変わったね。」
周は笑った。
「まだ分からないけどな。」
その日の夜、子どもは昔使っていた部屋で寝た。
周は廊下を通ったとき、少しだけ立ち止まった。
机はもうない。
本棚も空いている。
壁には、昔貼っていた紙の跡だけが残っている。
周は部屋の中を見た。
ここで宿題をした。
ここで怒ったこともあった。
ここで泣いたこともあったかもしれない。
自分が知らない時間も、きっとあった。
周は部屋の電気を消した。
翌朝、子どもが帰る準備をしていた。
劉は弁当を作った。
周は玄関で靴を履く子どもを見ていた。
「忘れ物ないか?」
「大丈夫。」
「財布は?」
「ある。」
「携帯は?」
「ある。」
「薬は?」
「ないよ。元気だから。」
周は笑った。
「そうか。」
少し間があった。
子どもが言った。
「また帰ってくる。」
「無理して帰ってこなくていい。」
子どもが顔を上げた。
周は続けた。
「仕事が忙しいなら、自分の生活を優先しろ。」
子どもは少し黙った。
「うん。」
玄関を出る。
数歩歩いたところで、子どもが振り返った。
「お父さん。」
「何だ?」
「ありがとう。」
周は手を上げた。
「気をつけて帰れ。」
子どもは歩いていった。
周はその背中を見送った。
以前なら、家に帰ったあとすぐに電話をかけていた。
「着いたか?」
「何時に着く?」
「ちゃんと飯を食ったか?」
今日は、かけなかった。
それでいいと思った。
ただ、夕方になっても電話が来なかった。
周は何度か携帯を見た。
夜になった。
まだ来ない。
劉が言った。
「心配?」
「少し。」
「電話する?」
周はしばらく考えた。
「……いや。」
そして少しして、携帯が鳴った。
子どもからだった。
「着いた。」
「そうか。」
「今、家。」
「飯は?」
「食べた。」
周は笑った。
「それならいい。」
電話はすぐに終わった。
周は携帯を置いた。
劉が笑う。
「よかったね。」
「ああ。」
周は窓の外を見た。
昔は、子どもが帰ってくることが家族の中心だった。
今は違う。
子どもには子どもの家がある。
自分たちには自分たちの家がある。
二つの家は離れている。
それでも、時々行き来する。
周はそれを少しずつ受け入れ始めていた。
けれど、その夜、劉が何気なく言った。
「今度、いつ帰ってくるかな。」
周は答えた。
「分からない。」
「寂しくない?」
周は少し考えてから言った。
「寂しいよ。」
それから、こう続けた。
「でも、寂しいからって、帰ってこいとは言えないだろ。」
劉は黙った。
二人はそれ以上話さなかった。
家の中は静かだった。
静かな家で、二人はいつものように夕食の片付けをした。
子どもがいなくなったからといって、夫婦の生活が終わるわけではない。
むしろ、二人だけの生活に戻っていく。
そのことを、二人ともまだうまく理解していなかった。
昔、子どもが生まれたとき、二人の生活は三人になった。
今、子どもが家を出て、また二人になった。
けれど、二人はもう、昔の二人ではなかった。




