第一百三十六章 帰る場所
十二月の半ば、周の家では年末の片づけが始まった。
大掃除というほどではない。
普段あまり動かさない家具を少しずらし、棚の上を拭き、古い新聞をまとめる。
劉は台所の戸棚を整理していた。
「これ、いつのだろう」
古い保存容器を一つ持ち上げる。
「使えるなら取っておけばいい」
「蓋がないよ」
「じゃあ、いらないな」
劉は袋に入れた。
周は居間の棚を拭いていた。
写真の箱を少し横へ動かすと、後ろから古い封筒が出てきた。
差出人の名前を見ると、昔上海で一緒に働いていた人だった。
「まだ連絡取ってるの?」
劉が聞いた。
「何年も取ってない」
「じゃあ、捨てる?」
周は封筒を開けなかった。
「中を見てからにする」
便箋には、短い文章が書かれていた。
仕事を辞めて別の町へ行くことになったこと。
向こうでも何とかやっていること。
機会があれば会おうということ。
日付は十年以上前だった。
周は読み終えると、便箋を封筒に戻した。
「どうするの?」
「取っておく」
「連絡する?」
「いや」
劉は何も言わなかった。
その日の午後、周は市場へ出た。
入口近くで、陳さんと会った。
「周さん」
「どうした?」
「息子から電話があった」
「正月のこと?」
「うん」
「帰ってくる?」
「まだ分からない」
陳さんは苦笑した。
「仕事が忙しいらしい」
「そうか」
「俺、前だったら『正月くらい帰ってこい』って言ってたと思う」
「今は?」
「言わなかった」
「どうして?」
「電話の最後に、『体に気をつけろ』って言った」
周は頷いた。
「それで十分なこともあるな」
「そうだな」
陳さんは魚売り場を見た。
「でも、やっぱり帰ってきたら嬉しいだろうな」
「それはそうだ」
「帰ってこなくても、仕方ないけど」
「そうだな」
二人は別れた。
周は野菜を買って家へ戻った。
途中、商店街の一角で小さな張り紙を見つけた。
「店舗改装のため、しばらく休業します」
どんな店だったか、周にはすぐ思い出せなかった。
隣の店の人に聞くと、以前は小さな衣料品店だったらしい。
「息子さんが戻ってきて、一緒にやるって話だったんだけどね」
「戻ってきたんですか?」
「一度は戻ってきたよ。でも、また別の仕事を始めたみたい」
「そうですか」
「今度はどうなるか、分からないけどね」
周は店のシャッターを見た。
閉まった店の前には、段ボールがいくつか置かれていた。
誰かが使っていた場所も、使われなくなる。
また別の人が使うこともある。
周はそのまま家へ帰った。
夕方、息子から電話が来た。
「父さん」
「うん」
「来週の休み、決まった」
「帰ってくるのか?」
「一泊だけ」
「そうか」
「土曜の夜に着くと思う」
「分かった」
「日曜の朝には戻る」
「忙しいな」
「うん」
少し沈黙があった。
「魚、食べたい?」
息子が笑った。
「魚、ある?」
「まだ買ってない」
「じゃあ、食べたい」
「分かった」
「母さんには?」
「俺から言っておく」
「うん」
電話を切った。
周が台所へ行くと、劉が夕食の準備をしていた。
「息子?」
「ああ」
「帰ってくる?」
「土曜の夜」
劉の顔が少し明るくなった。
「じゃあ、魚を買わないとね」
「そうだな」
「何時?」
「夜」
「遅いね」
「仕事が終わってからだから」
「じゃあ、待ってる」
周は少し笑った。
「先に寝てもいいぞ」
「寝られないでしょう」
「そうか」
「魚を買っておかないと」
「当日に買えばいい」
「売り切れてたら?」
「そのときは別のものにすればいい」
劉は少し考えてから笑った。
「あなた、本当に変わったね」
「何が?」
「前なら、二日前から魚を買ってた」
「そうだったな」
「今は当日なんだ」
「予定が決まったのが今日だからな」
二人は夕食の準備を続けた。
土曜日まで、まだ何日かあった。
その間に仕事が変わるかもしれない。
休みが変わるかもしれない。
体調を崩すこともある。
昔の周なら、決まった予定をそのまま実行できるものだと思っていた。
今は、予定は予定として置いておく。
実際にその日になってから考えることもある。
翌日、周は市場へ行った。
魚売り場の前を通ったが、何も買わなかった。
店員が、
「今日は買わないの?」
と笑って声をかけてきた。
「土曜日に買う」
「息子さん?」
「そう」
「じゃあ、大きいのにしないと」
周は笑った。
「一匹で十分だ」
「そうですか」
周はそのまま帰った。
家に着くと、劉が洗濯物を畳んでいた。
「魚、買ってきた?」
「まだ」
「忘れたの?」
「土曜日に買う」
「ああ、そうだった」
二人の会話は、それだけだった。
午後、周は物置に置いた息子の古い机を見た。
その上には、何も置いていない。
少し前なら、帰ってくる前に机の上まで片づけていたかもしれない。
今日はそのままにした。
息子が使うかどうかは、帰ってきてから本人が決めればいい。
周は物置の扉を閉めた。
夕方、庭を見ると、小さな実が一つ落ちていた。
周は拾い上げた。
少し乾いている。
手のひらに乗せたまま、しばらく見ていた。
それから庭の隅へ置いた。
特別なことはしなかった。
土に埋めることもしなかった。
捨てることもしなかった。
ただ、そこへ置いた。
土曜日はまだ先だった。
息子が帰ってくる場所は、昔と同じ家だった。
けれど、息子自身はもう、昔の子どもではない。
周もまた、昔の父親ではなかった。
同じ場所に戻ることと、同じ時間に戻ることは違う。
周はそう思いながら、家の戸を閉めた。
夕食の準備をする時間になった。
土曜日の魚のことは、まだ考えなかった。




