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家にいる人  作者: 亀


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第一百三十四章 知らないままの話

十一月の終わり、朝の雨が長く続いた。


周は窓の外を見ながら、今日は市場へ行くのをやめようかと思った。


けれど、冷蔵庫を開けると野菜がほとんど残っていなかった。


「傘を持っていくよ」


劉が言った。


「俺が行く」


「雨、強いよ」


「すぐ戻る」


周は古い上着を着て、傘を持った。


道路には水たまりができていた。


市場へ着くころには、ズボンの裾が少し濡れていた。


八百屋の前に、若い女性が立っていた。


以前、何度か市場で見かけた人だった。


店員と何か話している。


「来月から、こちらは週三日になるんです」


「そうなの?」


「はい。仕事が変わるので」


周はその横を通り過ぎた。


以前なら、仕事が変わると聞けば、その後も話を聞いていたかもしれない。


今日は聞かなかった。


白菜を一つ選び、卵を買った。


帰り道、雨が少し強くなった。


家に戻ると、劉が玄関まで出てきた。


「濡れたでしょう」


「少し」


「だから言ったのに」


「傘は持ってた」


「それでも濡れるのよ」


劉はタオルを渡した。


周は髪を拭いた。


昼食のあと、電話が鳴った。


李さんだった。


「周さん、今いいか?」


「いいよ」


「この前の話、覚えてる?」


「仕事を探してる人?」


「そう」


「どうした?」


「結局、最初の会社には行かないことにしたらしい」


「そうか」


「勤務時間が合わなかったんだって」


「次は?」


「まだ決まってない」


周は窓の外を見た。


雨はまだ降っていた。


「本人は何て言ってる?」


「もう少し探すって」


「じゃあ、探すんだろ」


「うん」


李さんは少し黙った。


「でも、家ではまた何か言われると思う」


「そうか」


「俺も何て言えばいいか分からない」


「言わなくてもいいんじゃないか」


「そうかな」


「本人が話してきたら聞けばいい」


「でも、親としては……」


李さんはそこで言葉を止めた。


周は待った。


「心配なんだよな」


「そうだな」


「何もしないのも、心配になる」


「そうだな」


「でも、何か言うと、それが余計なことになることもある」


「あるな」


二人とも黙った。


やがて李さんが、


「じゃあ、今日は何も言わないでおく」


と言った。


「それでいいと思う」


電話が切れた。


周はスマートフォンを机に置いた。


その直後、息子からメッセージが届いた。


「今日、研修終わった」


「雨だから気をつけて帰れよ」


そう返すと、


「もう帰ってる」


と返ってきた。


そのあと、しばらく何も来なかった。


周はスマートフォンを裏返した。


夕方になっても雨は止まなかった。


劉は窓の外を見て、


「明日は晴れるかな」


と言った。


「天気予報では晴れ」


「じゃあ、洗濯できるね」


「そうだな」


夕食の準備をしていると、劉が突然言った。


「そういえば、昔、息子が仕事を辞めたいって言ったことあったでしょう」


周は包丁を止めた。


「あったな」


「あのとき、あなた、すぐ反対したよね」


「そうだったか?」


「覚えてない?」


周は少し考えた。


「覚えてない」


「私は覚えてる」


「何て言った?」


「『次が決まってから辞めろ』って」


周は黙った。


「そうだったかもしれない」


「息子、何も言わなくなったよね」


「……そうだったな」


劉は野菜を洗った。


「今だったら、どうする?」


周はすぐには答えなかった。


「分からない」


劉が笑った。


「またそれ?」


「本当に分からない」


「昔はすぐ答えてたのに」


「昔は、俺が答えを知ってると思ってたんだろうな」


劉は何も言わなかった。


周は包丁を置いた。


「でも、今考えても、そのとき息子がどう考えてたのかは分からない」


「聞かなかったから?」


「聞いても、あのときの本人にしか分からないことがある」


夕食ができるまで、その話は続かなかった。


夜、雨が止んだ。


周は庭へ出た。


地面はまだ濡れていた。


植物の葉にも水滴が残っている。


小さな実は一つだけ落ちていた。


周はそれを拾い上げた。


軽かった。


しばらく手のひらに乗せてから、庭の隅に置いた。


家の中から劉の声がした。


「何してるの?」


「実が落ちてた」


「捨てる?」


「庭に置いとく」


「何で?」


「分からない」


劉が笑った。


「また分からない」


周も笑った。


翌朝、雨は完全に上がっていた。


周が起きてスマートフォンを見ると、息子から昨夜のメッセージが届いていた。


「来週の休み、まだ分からない」


周は、


「分かった。決まったら教えて」


と返した。


それだけだった。


以前なら、休みが分からないと聞けば、


「いつ分かる?」


「会社は何と言ってる?」


「来られそうなのか?」


と続けて聞いていたかもしれない。


今は聞かなかった。


決まっていないことは、決まっていない。


その事実だけで、今朝は十分だった。


朝食のあと、周は庭へ出た。


昨日落ちた実は、まだ隅に残っていた。


拾うことも、捨てることもしなかった。


そのままにしておいた。


その日の午前、李さんの家から笑い声が聞こえた。


息子が帰ってきたらしい。


何を話しているのかまでは聞こえなかった。


周は庭の土をならした。


しばらくして、李さんの息子が自転車で出ていった。


周と目が合うと、軽く頭を下げた。


周も頷いた。


それだけだった。


その日の午後、周は買い物へ出た。


途中、李さんと会った。


「昨日、息子と話した」


「そうか」


「仕事のことは、まだ聞いてない」


「うん」


「でも、久しぶりに一緒に昼飯を食った」


「それでいいんじゃないか」


李さんは少し笑った。


「そうかもしれない」


周はそれ以上聞かなかった。


李さんも話さなかった。


二人はそこで別れた。


それぞれ別の方向へ歩いていった。


人の生活には、外から見えない時間がある。


話さない時間もある。


知らない時間もある。


それが長くなったからといって、必ず何かが壊れるわけではない。


逆に、毎日話していても、分からないことは残る。


周はそれを、以前より気にしなくなっていた。


家に帰ると、劉が昼寝をしていた。


周は音を立てないように台所へ行き、買ってきた野菜を冷蔵庫に入れた。


それから椅子に座った。


静かな午後だった。


しばらくして、劉が目を覚ました。


「帰ってたの?」


「ああ」


「何か買った?」


「野菜」


「そう」


それだけ言って、劉はまた台所へ向かった。


周も立ち上がった。


その日の午後は、特に何も起きなかった。


それでも、それぞれの家では、それぞれの人が自分の時間を過ごしていた。


知らないままのことは、今日も残っていた。


けれど、知らないままでも、日常は続いていた。

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