第一百三十二章 返事をしない日
十一月に入ると、朝の冷え込みがはっきりしてきた。
周は朝食のあと、庭の鉢を少しだけ家の壁際へ移した。
風の強い日は、外に置いていると倒れることがある。
植物には、まだ小さな実が残っていた。
周は鉢の土を見てから、今日は水をやらなかった。
そのまま市場へ向かった。
途中、郵便受けを確認すると、電気料金の明細が入っていた。
封筒を開けて金額を確認し、そのまま鞄に入れた。
市場では、いつもの八百屋の前に人が集まっていた。
近所の女性たちが、何か話している。
「聞いた?」
「何を?」
「向こうの学校、来年からクラスが減るらしいよ」
「本当?」
「さあ。誰かがそう言ってた」
周は野菜を選びながら、その会話を聞いていた。
「誰が言ってたの?」
一人が尋ねる。
「娘の友達のお母さん」
「じゃあ、まだ分からないね」
「そうね」
話はそこで終わった。
周は白菜を一つ買った。
帰り道、昔通っていた小学校の前を通った。
校門の脇には、新しい掲示板が設置されていた。
何かのお知らせが貼られている。
周は自転車を止めて少し見たが、さっきの話とは関係なかった。
家に帰ると、劉が洗濯物を干していた。
「市場で何か聞いた?」
「学校の話」
「何?」
「クラスが減るって」
「どこの?」
「近くの学校」
劉は手を止めた。
「本当?」
「分からない」
「誰かが言ってたの?」
「そうらしい」
「じゃあ、まだ分からないね」
「そうだな」
劉はまた洗濯物を干し始めた。
「昔なら、すぐ誰かに電話して聞いてたね」
「そうだったかもな」
「最近はしないの?」
「必要になったらする」
それ以上、その話はしなかった。
昼過ぎ、李さんから電話が来た。
「周さん、ちょっと聞きたい」
「何?」
「この前話した息子の仕事なんだけど」
「うん」
「採用されたところから、連絡が来たらしい」
「それならよかったな」
「でも、勤務時間が思ってたのと違うらしい」
「そうか」
「本人は、もう一度確認してから決めるって」
「まだ決めてないんだな」
「そう」
李さんは少し黙った。
「俺、昨日、また言いそうになったんだ」
「何を?」
「せっかく仕事が決まったんだから、黙って行けばいいって」
「言った?」
「言わなかった」
「どうして?」
「前に言ったことを思い出した」
周は黙って聞いていた。
「息子が仕事を探してないと思って、俺が勝手に決めつけたこと」
「そうか」
「だから、昨日は聞くだけにした」
「何て言った?」
「『会社に確認したらいいんじゃないか』って」
「それならいいんじゃないか」
「でも、息子からしたら、結局同じことを言われてると思ったかもしれない」
「それは本人にしか分からないな」
李さんが笑った。
「周さん、本当にそればっかりだな」
「分からないものは分からない」
電話を切ったあと、周は台所で湯を沸かした。
しばらくして、息子からメッセージが来た。
「今日、研修終わった」
そのあと、
「明日の朝も早い」
と書かれていた。
周は、
「分かった。今日は早く休め」
と返した。
既読がついた。
返事はなかった。
以前なら、返事がないと、
「忙しいのか」
「何かあったのか」
「機嫌が悪いのか」
と考えていたかもしれない。
周はスマートフォンを机に置いた。
返事をしない理由は、いくらでもある。
寝ているかもしれない。
風呂に入っているかもしれない。
別のことをしているかもしれない。
本当に何かあったのかもしれない。
今の周には、それを確かめる方法がなかった。
だから、そのままにした。
夕方、劉が買い物から帰ってきた。
「息子から連絡あった?」
「うん」
「何て?」
「研修が終わったって」
「元気そうだった?」
「メッセージだけだから分からない」
劉は少し考えた。
「電話してみたら?」
周は首を横に振った。
「明日の朝も早いって言ってたから」
「そう」
劉は買ってきた野菜を冷蔵庫に入れた。
それ以上は言わなかった。
夜、二人で夕食を食べた。
テレビでは、最近の物価について話していた。
劉が、
「野菜も高くなったね」
と言った。
「白菜も前より高い」
「肉も」
「何でも上がってるな」
二人は値段の話をしながら食事を続けた。
息子のことは、その後話題にならなかった。
翌朝、周が起きると、スマートフォンにメッセージが一件入っていた。
「昨日は寝てた。ごめん」
周は少し笑った。
「分かった。今日も気をつけて」
と返した。
すぐに、
「うん」
と返ってきた。
それだけだった。
朝食を終えて庭へ出る。
植物の実はまだ残っていた。
周はその横を通り過ぎた。
水をやるか少し迷ったが、土を触ってみるとまだ湿っていた。
そのまま家に戻った。
昼前、近所の王さんが来た。
「周さん、昨日の話だけど」
「学校の話?」
「そう。あれ、違ったらしい」
「そうか」
「娘が調べたら、来年からクラスが減るんじゃなくて、今年の学年編成が少し変わるだけだった」
「そうだったのか」
王は笑った。
「人の話を聞いて、勝手に広げるもんじゃないな」
「まあ、よくあることだ」
「俺も気をつけないとな」
王が帰ったあと、周はしばらく玄関に立っていた。
知らないことを埋めるために、人は話を作ることがある。
本人に悪気があるわけでもない。
聞いたことを、そのまま次の人に伝えているだけかもしれない。
けれど、途中で少しずつ形が変わる。
周はそんなことを考えながら、昼食の準備を始めた。
午後、息子から電話が来た。
「父さん」
「うん」
「昨日、ごめん」
「もういいよ」
「返事しなかったから」
「寝てたんだろ」
「うん」
少し沈黙した。
「父さん、最近あんまり電話してこなくなったね」
「忙しいと思って」
「前は結構かかってきた」
「そうだったな」
「別に嫌じゃなかったけど」
「そうか」
「ただ、出られないときもあるから」
「分かった」
息子は少し笑った。
「父さん、最近『分かった』が多いね」
「そうか?」
「うん」
周も笑った。
「じゃあ、気をつける」
「何を?」
「分からないときまで分かったと言わないようにする」
電話の向こうで息子が笑った。
「それは難しいね」
「そうだな」
二人はしばらく他愛のない話をした。
仕事の具体的な内容について、息子は詳しく話さなかった。
周も聞かなかった。
電話が終わったあと、周は台所へ戻った。
劉が、
「長かったね」
と言った。
「少し話した」
「仕事のこと?」
「少しだけ」
「うまくいってる?」
周は少し考えた。
「本人は、やってみるって」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「そうだな」
夕方、周は庭へ出た。
実はまだ落ちていなかった。
ただ、一つだけ葉の近くに小さな傷がついていた。
周はそれを見つけたが、何もしなかった。
直す必要があるのかどうかも分からなかった。
そのまま家の戸を閉めた。
誰かが返事をしない日がある。
誰かが言わないこともある。
誰かが聞かないこともある。
それだけで、関係が変わったと決める必要はない。
翌朝になれば、また普通に話すこともある。
周はそんなことを考えながら、夕食のために米を研いだ。




