第一百三十一章 別の朝
十月の終わり、朝の気温がさらに下がった。
周は目を覚ますと、布団から出る前に窓の外を見た。
まだ空は暗かった。
台所から水の音が聞こえる。
劉はもう起きているらしい。
周が台所へ行くと、劉が鍋に水を入れていた。
「今日は早いね」
「目が覚めた」
「寒いから?」
「そうかもしれない」
劉は湯を沸かしながら言った。
「息子、今日から新しい仕事じゃなかった?」
「今日じゃない。来週からだ」
「ああ、そうだった」
劉は少し考えた。
「研修はもう始まったんでしょう?」
「始まったらしい」
「何て言ってた?」
「朝が早いって」
「大丈夫かな」
「本人がやってみるんだろ」
「そうね」
それ以上、二人は話さなかった。
朝食を食べ終えると、周は庭へ出た。
植物の葉に朝露がついていた。
小さな実はまだ残っている。
以前より少し色が濃くなっていた。
周は手を伸ばさず、落ちている葉だけ拾った。
そのとき、道路の向こうから自転車の音がした。
李さんだった。
「周さん」
「どうした?」
「昨日、返事が来た」
「仕事の?」
「そう」
李さんは自転車を止めた。
「息子、採用された」
「そうか」
「来月から働く」
「よかったな」
「うん」
李さんは笑った。
ただ、少し疲れた顔をしていた。
「本人は、まだ迷ってるみたいだけど」
「決まったのに?」
「仕事内容を聞いて、思っていたのと少し違ったらしい」
「そうか」
「だから、行ってみてから考えるって」
周は頷いた。
「それでいいんじゃないか」
「俺もそう思う」
李さんは自転車のハンドルを握ったまま、少し黙った。
「昨日な、謝ろうと思ったんだ」
「息子さんに?」
「ああ」
「謝った?」
「まだ」
「何て言うか考えてるのか?」
「そういうわけでもない」
李さんは苦笑した。
「顔を見たら、普通に話してしまった」
「そうか」
「仕事が決まったって聞いたら、『よかったな』って言った」
「それで?」
「息子も『うん』って」
「それだけ?」
「それだけ」
周は少し笑った。
「それも会話だろ」
「でも、昨日のことは残ってる」
「そうだな」
「謝らないまま普通に話したから、余計に変な感じがする」
周は返事をしなかった。
しばらくして、李さんが言った。
「俺の親父も、そうだったんだよ」
「何が?」
「喧嘩しても、次の日には普通に飯を食ってた」
「うちもそうだった」
「だから俺も、そういうものだと思ってた」
周は庭の実を見た。
「そういうやり方で家族が続いてきた人もいるんだろうな」
「でも、息子は同じじゃないかもしれない」
「そうかもしれない」
「だから、俺も一度くらい言ったほうがいいのかな」
「それは李さんが決めればいい」
李さんは笑った。
「またそれだな」
「俺が決めることじゃないからな」
「そうだな」
李さんは自転車にまたがった。
「じゃあ、行くわ」
「気をつけて」
「周さんもな」
自転車が遠ざかっていった。
周は庭に残った。
しばらくして、劉が玄関から出てきた。
「李さんだった?」
「ああ」
「何だったの?」
「息子さんの仕事が決まった」
「それはよかったね」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
劉は少し笑った。
「あなたたち、話すこと少ないね」
「必要なことは話した」
「そういうものなの?」
「人によるだろ」
劉は庭を見た。
「実、まだあるね」
「あるな」
「取らないの?」
「そのうち落ちるかもしれない」
「食べられるのかな」
「知らない」
劉が笑った。
「また知らない」
「知らないものは仕方ない」
二人は家の中へ戻った。
昼過ぎ、周は郵便局へ行った。
帰り道、以前働いていた工場の近くを通った。
建物の前に求人の紙が貼ってあった。
「従業員募集」
周は足を止めた。
以前なら、知っている会社なら誰かに紹介できないかと考えたかもしれない。
しかし、そのまま通り過ぎた。
仕事を探している人がいても、その仕事がその人に合うかどうかは分からない。
条件だけを見て決められることでもない。
家に帰ると、劉が電話をしていた。
「うん。そうなの。じゃあ、また連絡して」
電話を切った。
「誰?」
「妹」
「何かあった?」
「別に。娘が引っ越したって話」
「そうか」
「あなたのところも、息子が仕事変わるんでしょう?」
「うん」
「子どもって、いつの間にか自分で決めるようになるね」
周は椅子に座った。
「最初から自分で決めてたんじゃないか」
劉は少し考えた。
「そうかもしれないね」
夕方、息子からメッセージが来た。
「今日の研修、終わった」
そのあとに、
「思ったより大丈夫だった」
とあった。
周は、
「それならよかった」
と返した。
しばらくして、
「まだ始まってないけどね」
と来た。
周は笑った。
「そうだな」
と返した。
それから、
「今日は早く寝ろ」
と一言だけ送った。
息子からは、
「うん」
と返ってきた。
周はスマートフォンを置いた。
夕食の時間になっても、息子の仕事の話はそれ以上出なかった。
劉は野菜を盛りつけながら、
「今日、魚じゃないのね」
と言った。
「昨日食べたからな」
「そうだった」
その日の夕食は、炒めた野菜と卵、それから少しの肉だった。
特別なものはなかった。
食事のあと、周は食器を洗った。
劉が拭いていく。
昔なら、息子が新しい仕事を始めるというだけで、家の中でもその話が何度も出ていた。
今は、一度聞けばそれで終わることも増えた。
心配がなくなったわけではない。
ただ、心配していることを、毎日言葉にする必要はないと思うようになった。
夜、周は庭の戸を閉める前に、もう一度植物を見た。
小さな実は、まだ落ちていなかった。
明日も残っているかもしれない。
落ちるかもしれない。
それを確認するために、朝早く起きる必要はなかった。
周は戸を閉めた。
家の中へ戻る。
そのころ、息子は別の場所で、翌日の研修の準備をしていた。
李さんの息子も、来月から始まる仕事のことを考えていた。
それぞれの家で、それぞれの人が、まだ分からないことを抱えながら夜を過ごしていた。
同じ家族でも、同じ時間を生きているわけではない。
周はそれを、以前より少しだけ自然に受け入れられるようになっていた。




