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家にいる人  作者: 亀


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第一百三十章 言わなかった人

十月の半ばを過ぎると、朝の庭に落ちる影が長くなった。


周はいつもの時間に起きて、窓を開けた。


外はまだ薄暗かった。


台所から湯を沸かす音が聞こえる。


劉は朝食の準備をしていた。


「今日は寒いね」


「昨日より下がったみたいだな」


周は上着を一枚取って、庭へ出た。


名前の分からない植物には、まだ小さな実が残っていた。


葉の一部は黄色くなっている。


周は枯れた葉を二枚だけ拾った。


全部を取る必要はないと思った。


朝食を食べていると、隣の家から車の音がした。


李さんの家だった。


しばらくすると、李さんが一人で歩いてきた。


「周さん、いるか?」


「いるよ」


李さんは玄関から入ってきた。


「朝から悪いな」


「どうした?」


「昨日、息子と少し話した」


「仕事のこと?」


「うん」


李さんは椅子に座った。


「仕事を探してるって話しただろ」


「覚えてる」


「実は、もう一つ面接を受けてたらしい」


「そうか」


「俺は知らなかった」


周は黙って聞いた。


「家では何も言わないから、何もしてないと思ってた」


「そうだったのか」


「昨日、本人から言われた」


李さんは苦笑した。


「二社受けて、一社は落ちたらしい」


「もう一社は?」


「まだ返事がない」


「そうか」


「俺は、毎日家にいるから何もしてないと思ってた」


周は湯飲みを手に取った。


「家にいる時間だけ見てると、そう思うこともあるな」


「そうなんだよ」


李さんは少し俯いた。


「それで、昨日、余計なことを言った」


「何を?」


「『若いんだから、もっと動け』って」


周は何も言わなかった。


「言ったあとで、本人が『動いてるよ』って」


「そうか」


「そのとき、何も返せなかった」


しばらく沈黙が続いた。


「謝ったのか?」


李さんは首を横に振った。


「まだ」


「何で?」


「何て言えばいいか分からない」


周は湯飲みを机に置いた。


「そういうこともあるな」


「周さんは、謝ったことある?」


突然聞かれて、周は少し考えた。


「あると思う」


「思う?」


「はっきり覚えてない」


李さんは笑わなかった。


「俺の父親は、一度も謝った記憶がない」


「そうか」


「何かあっても、次の日には普通に飯を食ってた」


「うちも似たようなところはある」


周はそう言ってから、自分の言葉を少し考えた。


昔、息子と大きな喧嘩をしたあとも、翌朝になれば普通に朝食を食べていた。


何が原因だったかを話すことはなかった。


そのうち時間が経って、誰も何も言わなくなった。


それで終わったことになっていた。


けれど、終わったのは会話だけだったのかもしれない。


李さんが言った。


「時間が経てば、普通に戻るんだよな」


「そうだな」


「でも、戻ったからって、何もなかったことになるわけじゃないんだな」


周は少し驚いた。


李さん自身も、その言葉を口にしてから黙っていた。


「息子に、何か言うのか?」


「分からない」


「まだ決めてない?」


「ああ」


李さんは立ち上がった。


「今日は、もう少し待ってみる」


「そうか」


「返事が来たら、本人から話すかもしれないしな」


「うん」


玄関まで歩いてから、李さんが振り返った。


「もし何も言わなかったら?」


周は少し考えた。


「そのとき考えればいいんじゃないか」


李さんは頷いた。


「そうだな」


扉が閉まった。


周はしばらく玄関を見ていた。


劉が台所から顔を出した。


「李さん、何だったの?」


「息子さんの仕事」


「決まったの?」


「まだ」


「またまだなのね」


「そうだな」


劉は少し笑った。


「最近、何でも『まだ』だね」


「決まる前は、みんなまだだろ」


昼前、周は市場へ出た。


魚売り場の前で、以前よく見かけた若い女性が店員と話していた。


「来月から、朝の勤務になるんです」


「そうか。慣れるまで大変だね」


「そうですね」


女性は笑った。


「でも、今より通いやすくなるので」


周は横を通り過ぎた。


以前なら、その会話を聞けば、


「仕事変わったのかな」


「給料はどうなんだろう」


と考えたかもしれない。


今日は何も考えなかった。


他人の話には、その人にしか分からない事情がある。


周は魚を一匹選んだ。


その日の夕食用だった。


家に帰ると、劉が言った。


「今日は魚なの?」


「ああ」


「珍しいね」


「たまにはいいだろ」


「息子が来るわけじゃないのに?」


周は笑った。


「息子がいなくても魚は食べるだろ」


「それもそうね」


二人で夕食を食べた。


食事の途中、劉がふと思い出したように言った。


「あなた、昔、息子と喧嘩したときのこと覚えてる?」


「どの喧嘩?」


「高校のとき」


周は箸を止めた。


「……あったな」


「何で喧嘩したんだっけ?」


「覚えてない」


劉も少し考えた。


「私も覚えてない」


二人とも笑った。


けれど、周は少しだけ考えた。


何が原因だったか忘れている。


それでも、そのとき息子がどんな顔をしていたかは、なぜか覚えていた。


夕食のあと、周は庭に出た。


夜風が冷たかった。


植物の実に触れることはせず、少し離れて見た。


家の中から劉の声が聞こえる。


「寒いから、早く入ってきて」


「もう少ししたら」


「風邪ひくよ」


「分かった」


周は庭を一周してから家に入った。


その夜、息子からは連絡がなかった。


周も電話をしなかった。


新しい仕事が始まってから、連絡の間隔は少し長くなっていた。


それでも、以前ほど気にならなかった。


連絡がないことと、何か問題が起きたことは同じではない。


周はそう思いながら、布団に入った。


翌朝になれば、また朝が来る。


息子は息子の場所で起きる。


李さんの息子も、まだ返事を待っている。


李さん自身も、何を言うか決めていない。


そして周も、自分が昔言わなかったことを、まだ全部言葉にできるわけではなかった。


ただ、言わなかったことが消えるわけではない。


それだけは、少し分かるようになっていた。

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