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家にいる人  作者: 亀


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第一百二十九章 言わない人

十月のある平日、周は朝から市役所へ行った。


家の水道料金について、少し確認したいことがあった。


窓口で番号札を取り、椅子に座って待っていると、隣に六十代くらいの男が座った。


男は何度も封筒の中を確認していた。


やがて番号が呼ばれると、男は立ち上がった。


「すみません。これ、どういうことか分からなくて」


窓口の職員が書類を受け取った。


「こちらは更新のお知らせです」


「更新?」


「はい。今までと手続きが少し変わっています」


男は書類を見ながら首を傾げた。


「前はこんなのなかったと思うんだけど」


「制度が変わったためです」


男はしばらく黙っていた。


「じゃあ、何をすればいい?」


職員が一つずつ説明した。


男は何度も頷いた。


周は少し離れたところから、その様子を見ていた。


手続きが終わった男は、書類を封筒に戻した。


席に戻ると、周に気づいた。


「分かりにくいね」


「そうですね」


「前なら、紙一枚見れば分かったんだけどな」


「変わると、慣れるまで時間がかかりますね」


男は笑った。


「息子に聞けば早いんだけど、今日は仕事だからな」


「電話は?」


「できるけど、こういうことは自分でやらないと覚えないだろ」


周は少し笑った。


「そうですね」


「でも、分からないところは聞けばいい」


男は封筒を鞄に入れた。


「自分でやるのと、一人でやるのは違うからな」


その言葉が、周の耳に残った。


市役所を出ると、周はそのままスーパーへ向かった。


帰宅すると、劉が昼食を作っていた。


「今日は遅かったね」


「市役所に行ってた」


「何かあった?」


「水道のこと」


「ちゃんとできた?」


「できた」


劉はそれ以上聞かなかった。


昼食を食べ終わったころ、電話が鳴った。


李さんだった。


「周さん、今いいか?」


「いいよ」


「昨日話した仕事探してる若い人いるだろ」


「ああ」


「今日、工場を一つ見に行ったらしい」


「そうか」


「でも、まだ決めてないって」


「見てから決めるんだろ」


「そうなんだけどな」


李さんは少し笑った。


「家では、せっかく紹介してもらったんだから、すぐ決めろって言われたらしい」


「そうか」


「本人は、仕事内容をもう少し聞きたいって」


「それなら聞けばいい」


「親は、仕事があるだけでもありがたいって」


周は黙った。


「昔は俺も、そう言ってたと思う」


李さんが続けた。


「仕事があるなら、まず入れ。嫌なら後で考えろって」


「今は?」


「今は、それだけじゃないと思うようになった」


「どうして?」


「俺自身、昔それで入った仕事を三年やって、結局辞めたからな」


周は笑った。


「自分で経験したからか」


「そうかもしれない」


少し間があった。


「でも、息子には早く決めてほしいと思ってしまう」


「そういうこともあるだろ」


「周さんは、息子さんが新しい仕事を始めるんだろ?」


「ああ」


「心配じゃない?」


「心配だよ」


「でも、あまり聞かないんだな」


「聞いても、始まってないことは分からないからな」


李さんが笑った。


「それもそうだ」


電話を切ったあと、周は台所へ行った。


劉が野菜を切っていた。


「李さん?」


「ああ」


「何だった?」


「若い人が仕事を探してる話」


「決まったの?」


「まだ」


劉は包丁を止めた。


「最近、みんなまだまだって言うね」


「そうだな」


「昔なら、仕事が決まらないと落ち着かなかったでしょう」


「今も落ち着かない人はいるだろ」


「あなたは?」


周は少し考えた。


「落ち着かないよ」


「そうなの?」


「ただ、落ち着かないからって、誰かを急がせても仕方ない」


劉は何も言わず、また野菜を切り始めた。


午後、周は庭に出た。


名前の分からない植物の実を見た。


一つは少し大きくなっていた。


もう一つは、ほとんど変わっていなかった。


周は手を伸ばしかけて、やめた。


そのままにしておいた。


夕方、息子から電話が来た。


「父さん、今ちょっといい?」


「うん」


「明日、研修がある」


「そうか」


「朝早いから、今日は早く寝る」


「分かった」


「新しい仕事、思ってたより覚えることが多そう」


「そうか」


「まだ始まってないけど」


「始まってから考えればいい」


息子は少し笑った。


「それ、父さんが言うようになったね」


「何が?」


「前は、始まる前から色々考えてた」


周は笑った。


「そうだったな」


「今も心配?」


「してる」


「そっか」


少し沈黙があった。


「でも、父さん」


「ん?」


「心配してるって言ってくれるだけでいい時もあるから」


周は返事をしなかった。


すぐに何か言おうとしたが、やめた。


「分かった」


それだけ言った。


「じゃあ、寝るね」


「うん。明日、気をつけて」


「父さんも」


電話が切れた。


周はしばらくスマートフォンを手に持っていた。


以前なら、息子が「覚えることが多い」と言っただけで、何を覚えるのか、誰が教えるのか、何時から始まるのか、聞いていたかもしれない。


今は聞かなかった。


話したいことがあれば、息子のほうから話す。


聞いてほしいことがあれば、そのとき聞けばいい。


それで全部がうまくいくわけではない。


それでも、相手が話していないことまで、自分の想像で埋める必要はなかった。


夜、劉がテレビを見ながら言った。


「明日、息子は早いんでしょう」


「うん」


「ちゃんと起きられるかな」


「起きるだろ」


「もし起きられなかったら?」


周は少し考えた。


「そのときは、そのときだな」


劉は笑った。


「本当に変わったね」


「何が?」


「何でも先に心配しなくなった」


周はテレビに目を向けた。


「心配すること自体は、変わってないよ」


劉は何も言わなかった。


しばらくして、テレビの音だけが部屋に残った。


周は思った。


自分でやることと、一人でやることは違う。


心配することと、代わりに決めることも違う。


その違いを、昔はあまり考えなかった。


今も、いつでもできるわけではない。


ただ、少しずつ分けて考えるようになっていた。


その夜、周は息子に電話をかけなかった。


翌朝、息子が自分で起きるのかどうかも、知らないままだった。

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