第一百二十七章 誰の話なのか
九月の終わりになると、朝の空気が少し変わった。
暑さはまだ残っていたが、窓を開けたときに入ってくる風には、夏とは違う冷たさがあった。
周は朝食を済ませると、買い物袋を持って市場へ向かった。
途中、郵便局の前で、自転車を止めている若い男を見かけた。
近所の李さんの息子だった。
周が声をかけると、男は振り返った。
「周さん、おはようございます」
「おはよう。仕事は?」
「今日は休みです」
「そうか」
男は自転車の鍵をかけながら言った。
「これから父さんのところへ行きます」
「何か用事か?」
「ちょっと話があって」
周はそれ以上聞かなかった。
男は少し笑った。
「周さん、最近、聞かなくなりましたね」
「何を?」
「仕事のこと」
「聞いてほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃないです」
男は笑った。
「前は、みんなすぐ聞くんですよ。給料はいくらだとか、次はどこへ行くんだとか」
「聞かれて困ることもあるだろ」
「あります」
「じゃあ、聞かないほうがいいな」
「そうですね」
男は少し考えてから言った。
「でも、父さんは最近、前より聞かなくなりました」
「そうか」
「たぶん、俺が嫌がるのが分かったんだと思います」
「話せるようになった?」
「少しだけ」
それだけ言って、男は自転車に乗った。
「じゃあ、また」
「気をつけて」
周はその背中を見送った。
市場で野菜を買い、帰り道にパン屋へ寄った。
店の前には、学校帰りらしい高校生が二人立っていた。
一人がスマートフォンを見ながら話している。
「俺、卒業したら働くかもしれない」
「大学行かないの?」
「まだ決めてない」
「親は?」
「行けって言ってる」
「じゃあ、行くんじゃない?」
「分からない」
周は二人の横を通り過ぎた。
その会話が聞こえたのは、ほんの数秒だった。
家に帰ると、劉が洗濯物を取り込んでいた。
「今日はパン買ってきたよ」
「ありがとう」
「市場で李さんの息子に会った」
「何してた?」
「休みだったみたいだ」
「仕事、辞めたの?」
「知らない」
劉が手を止めた。
「知らないの?」
「聞いてない」
「前なら聞いてたでしょう」
「そうかもな」
劉は笑った。
「最近、本当に聞かなくなったね」
「知らないことが増えただけだ」
昼食のあと、周は居間で少し昼寝をした。
目を覚ますと、スマートフォンに息子からメッセージが届いていた。
「研修の日程、決まった」
続いて、
「来月の最初の週は毎日早い」
と書かれていた。
周は、
「分かった。無理しないようにな」
と返した。
少しして、
「ありがとう」
と返事が来た。
それだけだった。
夕方、近所の王さんがやって来た。
手には新聞があった。
「周さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
「うちの娘のことなんだけどな」
王は椅子に座った。
「最近、仕事が忙しいらしくて、家に帰ってきてもあまり話さないんだ」
「そうか」
「俺は、仕事を辞めたいのかと思って聞いたんだ」
「何て言った?」
「別に、って」
「それだけ?」
「うん」
王は新聞を膝の上で折った。
「昔だったら、もっと聞いてたと思う」
「今は?」
「今は、聞いても本人が話したくないなら、そこで終わりなのかなと思って」
周は黙って聞いていた。
「でもな」
王が続けた。
「親としては、何かあったらと思うだろ」
「それはそうだろうな」
「だから、放っておくのも違う気がする」
「そうだな」
「どうしたらいいと思う?」
周は少し考えた。
「俺には分からない」
王が笑った。
「周さん、そればっかりだな」
「本当に分からないんだ」
「そうか」
しばらく二人とも黙った。
窓の外から、子どもの声が聞こえた。
王が立ち上がった。
「まあ、今日は聞かないでおく」
「それでいいんじゃないか」
「明日は?」
「明日は明日だろ」
王は笑いながら玄関へ向かった。
「じゃあな」
「またな」
王が帰ったあと、劉が湯を沸かした。
「王さん、何だったの?」
「娘さんのこと」
「何かあったの?」
「知らない」
劉は少し笑った。
「あなた、本当に何でも知らないね」
「知らないものは知らない」
「昔は何でも答えようとしてたのに」
周は湯飲みを手に取った。
「昔は、答えを出さないといけないと思ってたんだろうな」
「今は?」
「答えを出せないこともある」
劉はしばらく黙っていた。
「それで困らない?」
「困ることもある」
「じゃあ、どうするの?」
「そのとき考える」
劉は湯飲みを机に置いた。
「それも、最近よく言うね」
周は笑った。
夜になって、息子から電話が来た。
「父さん、今大丈夫?」
「大丈夫だ」
「研修の場所、少し遠いんだ」
「通えるのか?」
「会社が交通費を出すって」
「それならよかった」
「最初の一週間は慣れないと思う」
「そうだろうな」
息子は少し黙った。
「父さん」
「ん?」
「もし、俺が仕事のことで何か言ったら、すぐに答えなくてもいいから」
周は黙った。
「どうした?」
「いや」
周は少し笑った。
「分かった」
「前は、俺が何か言うと、すぐ答えが返ってきたから」
「そうだったな」
「別に嫌だったっていうだけじゃないけど」
「うん」
「ただ、自分で考える前に答えを聞くことも多かったから」
周は窓の外を見た。
「そうだったか」
「うん」
「悪かったな」
電話の向こうが静かになった。
息子はしばらくして、
「うん」
と言った。
それ以上、二人ともその話を続けなかった。
周は昔のことを思い出そうとした。
数学の宿題。
学校の成績。
進路。
仕事。
あの頃は、息子が困っているのを見ると、何か言わなければならないと思っていた。
言葉を出すことが、助けることだと思っていた。
今は、そうとは限らない。
電話の向こうで息子が、
「じゃあ、また」
と言った。
「うん。体に気をつけろ」
「父さんも」
電話が切れた。
周はスマートフォンを机に置いた。
劉が隣の部屋から、
「息子?」
と聞いた。
「うん」
「何だって?」
周は少し考えた。
「仕事の話」
「うまくいってる?」
「まだ始まってないから、分からない」
劉は笑った。
「また分からない」
「始まってないものを、どうやって分かるんだ」
「それもそうね」
二人はテレビをつけた。
ニュースの音が部屋に流れた。
周は内容を全部聞いていたわけではなかった。
明日のことも、来月のことも、誰かの仕事がどうなるかも、まだ決まっていない。
分からないものを、分からないまま置いておく。
それだけのことが、以前より少しできるようになっていた。
その夜、周は翌朝の市場のことだけを考えて眠った。




