第一百二十六章 なくなった看板
張の店が閉まってから、十日ほど経った。
周は朝、市場へ向かう途中で、いつものように店の前を通った。
シャッターは閉まっている。
けれど、その前にあった看板がなくなっていた。
店の名前が書かれていた看板。
何年も同じ場所にあったものだった。
周は自転車を止めた。
看板がなくなると、店そのものが少し小さく見えた。
「もう外したんだな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
そのまま市場へ向かった。
帰り道、もう一度店の前を通った。
今度は、シャッターの横に小さな紙が貼ってある。
「テナント募集」
周は足を止めた。
それを見ていると、後ろから声がした。
「周さん」
振り返ると、張の息子だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「看板、外したんだな」
「昨日、業者に頼んで外してもらいました」
「そうか」
息子は店の前に立った。
「父さん、家にいます」
「腰は?」
「だいぶいいです」
「それならよかった」
息子はシャッターを見た。
「ここ、次に何が入るかはまだ決まってないです」
「そうか」
「父さんは、しばらく何もしないって」
「それもいいんじゃないか」
「俺もそう思います」
少し沈黙した。
「新しい仕事は?」
周が聞いた。
「来月からです」
「もうすぐだな」
「はい」
「緊張するか?」
「少し」
「最初はそんなものだろ」
「そうですよね」
息子は笑った。
「でも、前よりは自分で決めた感じがあります」
周は頷いた。
「それなら、やってみればいい」
「はい」
二人は店の前で別れた。
周は家へ戻った。
昼食のあと、劉が新聞を読んでいた。
「張さんの店、看板なくなったよ」
「そうなの?」
「うん。次の店を募集してた」
「早いね」
「店を閉めると、次の人を探すんだな」
劉は新聞から顔を上げた。
「新しい人が来るのかな」
「分からない」
「何でも分からないね」
「そうだな」
午後、周は庭の鉢を一つ動かした。
日当たりが少し悪くなっていたからだ。
小さな実のついた枝を傷つけないように、ゆっくり持ち上げる。
劉が窓から見ていた。
「それ、落とさないでね」
「分かってる」
「前より大きくなったね」
「そうだな」
「何になるんだろう」
「まだ分からない」
「食べられるものだったらいいね」
「そうとは限らないだろ」
「じゃあ、何だったらいい?」
周は少し考えた。
「別に、何でもいいんじゃないか」
劉は笑った。
「植えた本人がそれでいいならね」
周も笑った。
夕方、電話が鳴った。
息子だった。
「父さん、今いい?」
「いいよ」
「来月の仕事、最初の一週間は研修になった」
「そうか」
「朝が早いから、今より少し早く起きないといけない」
「体は大丈夫そうか?」
「たぶん」
「そうか」
息子は少し黙った。
「研修が終わったら、仕事の時間も正式に決まるらしい」
「じゃあ、まだ全部は決まってないんだな」
「うん」
「分かった」
「それだけ?」
「何が?」
「父さん、前ならいろいろ聞いたと思って」
周は笑った。
「聞いても、今の段階じゃ分からないだろ」
「まあね」
「決まったら、そのとき聞けばいい」
電話の向こうで息子が笑った。
「そうだね」
電話が終わった。
劉が台所から出てきた。
「何だった?」
「仕事の研修があるって」
「大変そう」
「最初はな」
「何か手伝えることある?」
周は少し考えた。
「今はない」
「そう」
劉は台所へ戻った。
夕食の準備を始める。
しばらくして、劉が言った。
「そういえば、私たちも昔は、何でも先に決めてたね」
「何を?」
「仕事とか、家のこととか」
周は少し考えた。
「決めないと生活できなかったからな」
「今は?」
「今は、決めるまで待てることもある」
劉は包丁を置いた。
「待つのも、疲れるけどね」
「そうだな」
二人はそれ以上話さなかった。
夜になって、周は庭へ出た。
小さな実を見た。
張の店から看板がなくなったように、そこにあったものが消えることはある。
けれど、消えた場所に何が来るのかは、まだ分からない。
庭の実も同じだった。
今はここにある。
いつか落ちるかもしれない。
何かになるかもしれない。
そのまま終わるかもしれない。
周は手を伸ばさなかった。
ただ、少し離れたところから見ていた。
家の中から、劉が呼んだ。
「ご飯できたよ」
「今行く」
周は庭を離れた。
道路の向こうでは、張の店だった場所が暗くなっている。
看板はもうない。
けれど、その場所だけが消えたわけではない。
町の中には、空いた場所があれば、また誰かが使う。
周はそんなことを考えながら、家の戸を閉めた。




