第一百二十五章 最後の営業日
張の店を閉める日が来た。
朝、周はいつもより早く家を出た。
市場へ向かう途中、店の前を通る。
シャッターはすでに開いていた。
入口の横には、古い看板が立っている。
いつもと同じ景色だった。
ただ、店の中には以前より物が少ない。
周が自転車を止めると、張が顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう。今日が最後だな」
「そうだな」
張は店の奥を見た。
棚はほとんど空になっている。
工具もかなり減っていた。
「朝から来るとは思わなかった」
「市場の途中だからな」
「そうか」
息子も奥で作業をしていた。
「周さん、おはようございます」
「おはよう」
「今日で終わりです」
「そうだな」
息子は笑った。
「なんか、まだ実感ないです」
「店がなくなるわけじゃなくて、場所が変わるだけだと思えばいい」
「場所も、もう借りないんです」
「そうか」
「父さん、しばらく家で休むって」
張が言った。
「店のことは、しばらく考えない」
「それがいい」
周はそう答えた。
午前中、何人かの客が来た。
「今日で最後なんですか」
「そう」
「長い間、ありがとうございました」
「こちらこそ」
同じような会話が何度も続いた。
ある女性は、十年以上前に子どもの自転車を直してもらった話をした。
別の男性は、仕事帰りに毎週ここへ寄っていたことを話した。
張は一人ひとりの話を聞いていた。
時々、
「そんなこともあったな」
と笑った。
昼前、店の前に小さな男の子が来た。
自転車の後ろに父親がいる。
「最後なんですか?」
子どもが聞いた。
「そうだよ」
張が答える。
「もう直してくれないの?」
「もう、ここではね」
「どうして?」
張は少し考えた。
「年を取ったからかな」
子どもは納得したような、していないような顔をした。
父親が、
「長い間ありがとうございました」
と言った。
張は、
「こちらこそ」
と答えた。
二人が帰ったあと、店の中が静かになった。
昼食を食べて、午後から最後の片づけをした。
棚を外す。
工具箱を運ぶ。
机を拭く。
床を掃く。
周は古い布を濡らして、作業台を拭いた。
木の表面には、細かい傷がたくさん残っていた。
「この傷、全部覚えてるか?」
周が聞くと、張は笑った。
「覚えてるわけないだろ」
「そうか」
「でも、見れば何となく分かる」
張は作業台に手を置いた。
「ここで何人の自転車を直したか、もう数えられないな」
息子が言った。
「俺が子どものころも、ここに座ってた」
「そうだったな」
「宿題やってた」
「よく寝てたけどな」
「それは覚えてない」
三人で笑った。
夕方、最後の客が帰った。
張は入口に立った。
「これで終わりだな」
息子がシャッターを下ろす準備をした。
周は少し離れたところに立っていた。
シャッターがゆっくり下がっていく。
途中まで下がったところで、張が言った。
「ちょっと待て」
息子が止めた。
張は店の中をもう一度見た。
空になった棚。
古い机。
作業台。
壁に残った小さな跡。
「もういい」
息子がシャッターを下ろした。
金属の音がした。
店の前が静かになった。
張は鍵をかけた。
その鍵をしばらく手の中で見ていた。
「捨てるの?」
息子が聞いた。
「まだ持ってる」
「使わないよ」
「分かってる」
「じゃあ、なんで?」
張は答えなかった。
周も聞かなかった。
三人は店の前にしばらく立っていた。
やがて張が、
「飯でも食うか」
と言った。
「うん」
息子が答えた。
周も一緒に歩いた。
近くの食堂に入る。
三人で簡単な夕食を食べた。
張はビールを一本だけ飲んだ。
「明日から何する?」
息子が聞いた。
「朝、寝る」
「それだけ?」
「しばらくはな」
「そのあと?」
「まだ分からない」
息子は笑った。
「父さんらしい」
「お前だって、来月から新しい仕事だろ」
「うん」
「大丈夫か?」
「やってみないと分からない」
張は少し笑った。
「そうだな」
周は二人の話を聞きながら、箸を動かした。
店は今日でなくなった。
けれど、そこで働いていた時間までなくなったわけではない。
息子も来月には別の職場へ行く。
張も、しばらくは家で過ごす。
それぞれの生活が、少しずつ形を変えていく。
食事が終わり、店の前まで戻った。
もう看板の明かりはついていない。
張は鍵をポケットに入れた。
「じゃあ、またな」
「うん」
周は自転車に乗った。
家へ向かう途中、振り返る。
暗くなった店が、道路の向こうに小さく見えた。
周はそのまま前を向いた。
家に帰ると、劉が夕食の片づけをしていた。
「遅かったね」
「張さんと飯を食ってた」
「今日、最後だったんだね」
「うん」
「寂しそうだった?」
周は少し考えた。
「分からない」
劉は笑った。
「またそれ?」
「本人じゃないからな」
劉は何も言わなかった。
周は庭へ出た。
暗くて、実の色はよく見えない。
手を伸ばして触れることもしなかった。
明日になれば、張の店はもう開かない。
それでも朝は来る。
張の朝も来る。
息子の朝も来る。
そして周と劉の朝も来る。
周は庭の戸を閉めた。
家の中から、テレビの音が聞こえていた。




