第一百二十三章 それぞれの仕事
九月の半ばになると、朝の空気に少しだけ秋の気配が混じるようになった。
周は朝食を終え、新聞を折りたたんだ。
「今日は市場?」
劉が聞いた。
「うん」
「卵、買ってきて」
「分かった」
周は財布をポケットに入れた。
玄関を出ると、近所の道で若い男が自転車を押していた。
チェーンが外れたらしい。
「どうした?」
周が聞くと、
「さっき外れました」
と答えた。
周は自転車を見た。
「工具ある?」
「ないです」
「家、近い?」
「すぐそこです」
「じゃあ、押して帰ればいい」
若い男は少し困った顔をした。
「今日、仕事なんです」
「何時から?」
「九時」
周は時計を見た。
まだ八時前だった。
「修理屋は休んでるぞ」
「そうなんですよ」
若い男はチェーンを見た。
「父に見てもらおうかな」
「それが早いんじゃないか」
「でも、父も仕事があるから」
周は少し考えた。
「じゃあ、まず電話してみればいい」
「そうですね」
若い男はスマートフォンを取り出した。
父親に電話をしている。
周はその場を離れようとした。
「周さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何もしてないぞ」
「でも、どうしたらいいか分からなかったので」
周は笑った。
「電話するだけなら、すぐできるだろ」
「はい」
周は市場へ向かった。
帰り道、同じ場所を通ると、自転車はなくなっていた。
その代わり、道路脇にチェーンの跡だけが残っていた。
家に戻ると、劉が卵を受け取った。
「今日は遅かったね」
「途中で自転車が壊れた人がいた」
「直してあげたの?」
「いや。父親に電話させただけ」
劉は笑った。
「それでも助かったんじゃない?」
「どうだろうな」
昼過ぎ、電話が鳴った。
張からだった。
「周、ちょっといいか」
「どうした?」
「店のことで話がある」
「うん」
「来月から、しばらく店を閉めることにした」
周は黙って聞いた。
「体が前みたいに動かない」
「そうか」
「息子も別の仕事に行くし、一人で続けても仕方ない」
「店を売るのか?」
「まだ決めてない」
張は少し笑った。
「また分からないだろ」
「そうだな」
「ただ、もう毎朝シャッターを開けることだけはやめようと思う」
「それでいいんじゃないか」
「お前ならそう言うと思った」
二人はしばらく黙っていた。
「店を閉めると、何か終わったみたいだな」
張が言った。
周は少し考えた。
「店は終わるかもしれないけど、張さんの生活まで終わるわけじゃないだろ」
「そうだな」
「息子さんも仕事が変わるだけだ」
「うん」
電話が切れた。
周はしばらく窓の外を見た。
劉が聞いた。
「張さん?」
「店を閉めるって」
「そう」
劉は少し驚いた顔をした。
「長かったよね、あの店」
「二十年くらいだって」
「そうなんだ」
「でも、ずっと同じじゃないからな」
劉は何も言わなかった。
午後、近所の女性が回覧板を持ってきた。
「これ、次に回して」
「分かった」
女性は玄関先で少し話した。
「張さんの店、閉めるんだって?」
「そうらしい」
「聞いた?」
「本人から」
「この辺も店が減ったね」
「そうだな」
「昔はもっと人がいたのに」
周は道路を見た。
確かに、以前より静かになっている。
けれど、近くには新しい店もいくつかできていた。
「減った店もあるけど、新しい店もある」
「そうね」
女性は回覧板を渡した。
「じゃあ、また」
「うん」
夕方、周は庭へ出た。
小さな実は、さらに色が濃くなっていた。
もう緑色とは言えない。
周はスマートフォンを取り出して写真を撮った。
誰かに送るつもりはなかった。
ただ、記録しておこうと思った。
しばらくして、息子からメッセージが来た。
「新しい仕事、来月から始まる」
周は、
「最初は大変だろうな」
と返した。
「たぶん」
「分からないことがあったら、聞けばいい」
「うん」
そこで終わると思った。
しかし、少ししてもう一通来た。
「父さんも、分からないことあったら誰かに聞いてね」
周は画面を見て、笑った。
「そうする」
と返した。
夕食のとき、周はそのことを劉に話した。
「息子に心配されたんだね」
「そうみたいだな」
「昔は、あなたが息子に同じこと言ってたのに」
「そうだったな」
劉は笑った。
「立場が変わったね」
「そうだな」
二人で食事を続けた。
食後、周は庭の写真をもう一度見た。
張の店は閉まる。
息子は新しい仕事を始める。
近所の自転車の若者も、今日の仕事へ行っただろう。
誰かの生活が変わると、別の誰かの生活も少し動く。
けれど、それぞれが同じ方向へ進むわけではない。
店を閉める人もいる。
別の仕事へ移る人もいる。
今の仕事を続ける人もいる。
周はスマートフォンをしまった。
庭の実を見た。
まだ何になるのかは、分からない。
それでも、ここにある時間だけは、少しずつ先へ進んでいた。




