第一百二十一章 遅い夕食
九時を過ぎても、息子はまだ来なかった。
魚は冷蔵庫の中に入れたままだった。
劉は台所で何度目か分からないほど時計を見た。
「まだかな」
「仕事が終わったのは九時半だって言ってたから、もう少しかかるだろ」
「そうだね」
周はテレビをつけた。
画面では、夜のニュースが流れている。
けれど、二人ともあまり見ていなかった。
十時を少し過ぎたころ、玄関の外で車の音が止まった。
劉が立ち上がった。
「来たかな」
周も玄関へ向かった。
ドアが開く。
「ただいま」
「おかえり」
息子は大きなバッグを肩にかけていた。
「遅くなった」
「大丈夫。仕事だったんだろ」
「うん。最後にちょっと片づけがあって」
靴を脱いだあと、息子は時計を見た。
「もう十時半か」
「お腹すいてる?」
劉が聞く。
「少し」
「じゃあ、魚焼くね」
「まだ焼いてなかったの?」
「帰ってきてからと思って」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
劉は魚を出した。
周は台所の椅子に座っていた。
「仕事、そんなに遅くなるとは思わなかった」
「俺も思わなかった」
息子は水を飲んだ。
「来週から朝が早くなるけど、帰りは今日みたいにはならないと思う」
「そうか」
「今日はたまたま」
周は頷いた。
魚が焼ける匂いが部屋に広がった。
息子は少し疲れた顔をしていたが、食卓に座ると表情が緩んだ。
「いただきます」
三人で食べ始めた。
「やっぱり家の魚はいいな」
「市場で買ったからね」
劉が笑った。
「仕事先でも魚食べることあるけど、こういう味じゃない」
「味付けは同じだよ」
「そう?」
「そうだよ」
周は魚を食べながら二人の会話を聞いていた。
しばらくして、息子が言った。
「今日、会社で一人辞めた」
「辞めた?」
劉が顔を上げた。
「うん。前から考えてたらしい」
「次の仕事は決まってるの?」
「たぶん決まってると思う」
「たぶん?」
「俺も詳しくは知らない」
劉は何か言おうとしたが、やめた。
息子は魚の骨をきれいに取っている。
「その人、仕事が嫌だったのかな」
「それは本人にしか分からないと思う」
「そうだね」
周は何も言わなかった。
食事が終わるころには、十一時を過ぎていた。
息子が皿を片づけようとすると、劉が止めた。
「今日はいいよ。疲れてるでしょう」
「これくらいやるよ」
「明日早いんだから」
「明日は昼からだから大丈夫」
「それでもいいよ」
二人が言い合っているのを見て、周は笑った。
「じゃあ、二人でやればいい」
「何それ」
息子が笑う。
結局、三人で片づけた。
そのあと息子は風呂に入り、周は先に寝る準備をした。
布団に入る前、息子が部屋の前から声をかけた。
「父さん」
「ん?」
「明日、少しだけ庭見てもいい?」
「庭?」
「この前の実」
「いいよ」
「何になるか、まだ分からないんだよね」
「分からない」
「じゃあ、明日見てみる」
「朝、起きられたらな」
「起きるよ」
息子は笑って自分の部屋へ戻った。
翌朝、周が目を覚ますと、窓の外は明るくなっていた。
台所から物音がする。
周が居間へ行くと、息子がコップに水を入れていた。
「起きたか」
「うん」
「早いな」
「昨日言ったから」
二人で庭へ出た。
朝の空気は少し涼しかった。
息子は小さな実を見つけた。
「これ、昨日より大きくなってる?」
「たぶんな」
「写真撮っていい?」
「いいよ」
息子はスマートフォンを取り出して写真を撮った。
何枚か角度を変えて撮る。
「何に使うんだ?」
「分からないけど、残しておこうと思って」
周はそれを聞いて、少し笑った。
「それもいいな」
息子は写真を確認している。
「父さん」
「ん?」
「昨日の会社の人の話なんだけど」
「うん」
「辞めた理由、本人から聞いた」
「そうか」
「家族にはまだ言ってないらしい」
周は黙って聞いた。
「言わないほうがいいこともあるのかな」
「分からない」
「またそれ?」
息子が笑う。
「でも、本人が決めることなんだろうな」
周は息子を見た。
「そうだな」
それ以上は話さなかった。
朝食のあと、息子は帰る準備を始めた。
昨日より少し眠そうだった。
「昼まで休んでいけば?」
劉が言う。
「そうしたいけど、今日は早めに戻る」
「そう」
「来週は仕事が忙しくなるかもしれないから」
周は頷いた。
「無理するなよ」
「うん」
玄関で靴を履く。
「魚、美味しかった」
「また食べに来ればいい」
劉が言った。
「うん」
息子は外へ出た。
周も玄関まで出た。
「じゃあ」
「気をつけて」
息子は歩き出した。
昨日とは違って、今日は昼の明るさの中だった。
周は少しだけ見送ってから家に戻った。
台所には、昨夜の皿を洗ったあとの水滴が残っている。
庭には、小さな実がある。
そして、息子が撮った写真だけが、もう別の場所へ持っていかれた。
周は庭を見ながら思った。
帰ってくる人は、帰るたびに何かを残していく。
写真だったり、食べ終わった皿だったり、短い会話だったりする。
それらは長く残るものではない。
それでも、なくなったあとに、その時間があったことだけは分かる。
周はじょうろを持った。
今日は土が乾いていた。
水を少しだけやった。
そのあと、家の中へ戻った。




