第一百一十八章 修理店の前
八月の終わりが近づいていた。
朝から空気が重い。
周は庭に出て、水をやる前に土を指で触った。
昨日の夜に少し雨が降ったせいか、まだ湿っている。
「今日はやらなくていいよ」
後ろから劉が言った。
「分かってる」
周はじょうろを戻した。
朝食を食べ終わったあと、周は自転車に乗って町のほうへ出た。
先日の修理店に寄るつもりだった。
店の前まで行くと、シャッターが半分だけ開いている。
「張さん?」
返事がない。
周は少し待った。
奥から若い男が出てきた。
「あ、周さん」
「今日は休み?」
「父さん、病院」
「どうした?」
「昨日から腰が痛いって言ってて」
「大丈夫なのか?」
「今のところは大丈夫だと思います。検査するって」
周は店の中を見た。
工具がいつもの場所に並んでいる。
作業台の上には、途中まで分解された自転車が一台置かれていた。
「今日は店、どうする?」
「午前中だけ開けて、午後は閉めます」
「そうか」
周は少し考えて、
「じゃあ、部品はまた今度でいい」
と言った。
「すみません」
「気にするな」
店を出ようとすると、若い男が声をかけた。
「周さん」
「何?」
「父さん、最近ちょっと仕事を減らそうとしてるんです」
「そうなのか」
「でも、本人はまだ何も決めてなくて」
「それなら、まだ決まってないんだろ」
若い男は黙った。
「俺、店を続けるのか、別の仕事を探すのか、聞いてもよく分からなくて」
「本人が考えてる途中なら、そういうこともある」
「周さんなら、どうします?」
周は少し考えた。
昔なら、何か答えを出そうとしたかもしれない。
今は、目の前の若い男が何を聞きたいのか、すぐには分からなかった。
「俺なら、まず父さんが何を考えてるか聞くかな」
「聞いても、答えないんですよ」
「じゃあ、答えが出てないのかもしれないな」
若い男は苦笑した。
「そうかもしれないですね」
「急がせても、決まるとは限らないしな」
「……そうですね」
周は店を出た。
帰りに市場へ寄る。
魚売り場の前を通ったが、今日は買わなかった。
店員が、
「今日は魚、いらない?」
と笑う。
「今日は二人だからな」
「この前は三人でしたね」
「息子が帰ってきてたから」
「また来るでしょう」
「そうだな」
周は野菜だけ買った。
家に戻ると、劉が昼食を作っていた。
「修理屋、どうだった?」
「張さん、病院だって」
「どこか悪いの?」
「腰らしい」
「大丈夫かな」
「検査するって」
劉は少し黙った。
「年を取ると、いろいろ出てくるね」
「そうだな」
昼食のあと、周は居間で少し昼寝をした。
起きたとき、外は曇っていた。
スマートフォンを見る。
息子からメッセージが来ていた。
「今日は少し早く終わりそう」
周は、
「そうか」
と返した。
少しして、
「来週、休みが一日ある」
と届いた。
周は画面を見た。
「帰ってくる?」
送ってから、すぐに消したくなった。
息子が帰ってくるかどうかは、まだ決まっていない。
しかし、返信はすぐに来た。
「まだ分からない。仕事の予定見てから」
周は、
「分かった」
と返した。
それだけにした。
夕方、劉が庭に出てきた。
「息子、何か言ってた?」
「来週、休みがあるって」
「帰ってくる?」
「まだ分からないって」
劉は少し考えた。
「じゃあ、魚は買わなくていいね」
「まだ早いからな」
「そうだね」
二人で庭を見た。
小さな実は、少しだけ色が濃くなっていた。
「これ、食べられるのかな」
劉が言った。
「分からない」
「また?」
「調べてないから」
劉は笑った。
「じゃあ、まだそのままね」
「そのままだな」
夜になって、雨が降り始めた。
強い雨ではない。
屋根に細かい音が続いている。
周は窓を閉めた。
そのとき、電話が鳴った。
張からだった。
「もしもし」
「周か」
「大丈夫か?」
「大したことない。検査して、少し休めって言われただけだ」
「それならよかった」
「店、明日も休む」
「そうしたほうがいい」
張は少し笑った。
「息子に店を任せようかと思ったけど、まだ早いな」
「本人は?」
「本人も別の仕事を考えてるらしい」
「そうか」
「俺が決めることでもないからな」
周は電話の向こうで、張が少し咳をするのを聞いた。
「まず体を休めろよ」
「分かってる」
「店のことは、そのあとで考えればいい」
「そうだな」
電話が終わった。
周はしばらくスマートフォンを手に持っていた。
昔なら、仕事を続けるのか、誰が店を継ぐのか、息子はどうするのか。
そういうことまで考えたかもしれない。
今は、張が明日休むことだけが分かっている。
それで十分だった。
台所から劉の声がした。
「お茶、飲む?」
「うん」
周はスマートフォンを置いた。
雨はまだ降っている。
来週、息子が帰ってくるかどうかは分からない。
修理店がいつ開くかも分からない。
張がこれからどんな働き方をするのかも、まだ決まっていない。
町の中には、決まっていないことがいくつもある。
それでも、それぞれの朝は来る。
周は湯気の立つ茶を一口飲んだ。
窓の外で、雨の音が続いていた。




