第一百一十七章 空いた席
息子が帰ってから、三日が過ぎた。
食卓には、いつもの二人分の茶碗が並んでいる。
劉は朝食を作りながら、ふと棚の上を見た。
「これ、息子の箸じゃない?」
「そうか?」
「昨日からここにある」
周が見ると、息子が使った箸が一本だけ、普段とは違う場所に置かれていた。
「洗って戻すの忘れたんだろ」
「そうだね」
劉はそれを洗って、引き出しに戻した。
それだけだった。
午後、周は近所の修理店へ行った。
店の前には、自転車が二台並んでいる。
店主の張は、工具箱を開けていた。
「また壊れた?」
「いや、今日は見るだけ」
「見るだけ?」
「前に頼んでた部品、来たかと思って」
「まだだよ。来週になるかもしれない」
「そうか」
周は店の前に置かれた古い自転車を見た。
「これ、長いな」
「十五年くらい」
「まだ使える?」
「部品があればな」
張はそう言って、チェーンを触った。
「新しいのを買ったほうが早いこともあるけど、直せるなら直す人もいる」
「人それぞれだな」
「そうだな」
張は笑った。
店の奥から若い男が出てきた。
「父さん、昼飯どうする?」
「あとでいい」
「俺、先に食べてくる」
「分かった」
若い男はスマートフォンを見ながら出ていった。
周はその後ろ姿を見送った。
「息子さん?」
「そう。今、手伝ってもらってる」
「仕事、ここで?」
「まだ決めてない。少し手伝ってるだけ」
「そうか」
周はそれ以上聞かなかった。
張も説明しなかった。
しばらくして、部品が届いた。
張は箱を開けた。
「これだ」
「じゃあ、また来る」
「いつでも」
周は店を出た。
帰り道、スーパーの前で李に会った。
「どこ行ってた?」
「修理屋」
「何か壊れた?」
「まだ壊れてない」
李は笑った。
「壊れてから考えるってことか」
「そういうことだ」
二人で歩きながら、李が言った。
「うちの息子、最近また仕事の話をしてきた」
「辞めるのか?」
「それが分からない」
「本人も?」
「たぶん」
李は少し黙った。
「前なら、すぐ『辞めるな』って言ってたと思う」
「今は?」
「聞いただけ」
「それで?」
「何も言わなかった」
周は李を見る。
「難しいな」
「難しいよ」
二人は笑った。
「でも、何も言わないと、冷たくなったみたいに思われるかな」
「分からないな」
「お前、そればっかりだな」
「分からないことが多いからな」
李は笑いながら、
「まあ、そうだな」
と言った。
家に戻ると、劉が洗濯物を畳んでいた。
「修理屋、どうだった?」
「部品が来てた」
「じゃあ直せるんだ」
「来週持っていく」
劉は頷いた。
夕方、息子からメッセージが届いた。
「今日も仕事終わった」
周は、
「お疲れ」
と返した。
少しして、もう一通届いた。
「朝早いの、やっぱり少し眠い」
周はしばらく画面を見た。
「慣れるまで大変だな」
送ってから、少し考えた。
以前なら、
「早く寝ろ」
「夜更かしするな」
「体を壊すぞ」
と、いくつも書いていただろう。
今はそれだけにした。
息子から、
「うん」
と返ってきた。
周はスマートフォンを伏せた。
夕食の時間になった。
劉が二人分の皿を並べる。
「昨日まで三人だったから、少し狭く感じるね」
「そうか?」
「なんとなく」
周は息子が座っていた椅子を見る。
そこには何もない。
「また帰ってくるよ」
「うん」
劉は箸を取った。
「次はいつかな」
「まだ聞いてない」
「聞かないの?」
「仕事があるから、まだ決まってないんじゃないか」
劉は少し考えて、
「そうだね」
と言った。
食事の途中で、外からバイクの音が聞こえた。
劉が一瞬、玄関のほうを見る。
すぐに視線を戻した。
「違ったね」
「うん」
二人とも笑った。
食後、周は食器を片づけた。
庭に出ると、日が落ちかけていた。
小さな実は、前より少しだけ色が変わっている。
周は手を伸ばしかけて、やめた。
触らないほうがいい気がした。
家の中から劉の声が聞こえる。
「お茶、入れたよ」
「今行く」
周は庭を一度振り返った。
息子がいない家は、息子がいた頃とは少し違って見える。
けれど、二人の生活そのものが変わったわけではない。
空いた席は空いたままでも、食卓は続いていく。
周は戸を閉め、家の中へ戻った。




