第一百一十五章 土曜日の魚
土曜日の朝、周はいつもより少し早く起きた。
窓の外から蝉の声が聞こえる。
台所へ行くと、劉はすでに起きていた。
「今日は何時ごろ来るって?」
「昼過ぎには出るって言ってた」
「じゃあ、夕方くらいかな」
「たぶんな」
冷蔵庫の横には、数日前に貼った紙が残っている。
土曜日――魚。
周はそれを見て笑った。
「まだ貼ってある」
「忘れたら困るから」
「忘れないよ」
朝食のあと、二人で市場へ向かった。
魚売り場には、いつもより人が多かった。
周は何匹か見比べて、一匹を選んだ。
「これにしよう」
「少し大きくない?」
「三人なら食べられる」
「息子は一泊だけだからね」
「分かってる」
帰り道、劉は野菜も買った。
袋が少し重くなった。
周が持とうとすると、
「私が持つ」
と言った。
「重いだろ」
「これくらい大丈夫」
二人で袋を分けて持った。
家に戻ると、劉は魚を冷蔵庫に入れた。
「何時ごろ焼く?」
「帰ってきてからでいい」
昼を過ぎても、息子から連絡はなかった。
周は庭へ出た。
花が終わったあとにできた小さな実は、少し大きくなっている。
葉には蝉の声が落ちてくる。
周は水をやった。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
「今から出る」
息子からだった。
「気をつけて」
「うん。夕方には着くと思う」
「分かった」
電話を切る。
劉が庭から顔を出した。
「出た?」
「今からだって」
「じゃあ、夕方だね」
「そうだな」
午後はゆっくり過ぎた。
劉は掃除をした。
周は居間でテレビを見ていた。
時々スマートフォンを見る。
特に新しい連絡はない。
四時を過ぎたころ、息子から、
「あと一時間くらい」
と届いた。
周は、
「分かった」
と返した。
劉は魚を冷蔵庫から出した。
「もう準備していい?」
「まだ早いんじゃないか」
「焼くのに時間かかるから」
「そうか」
台所から魚を焼く匂いがしてきた。
周は窓を開けた。
外へ匂いが流れていく。
五時を少し過ぎたころ、玄関の外で足音がした。
「ただいま」
「おかえり」
息子が入ってきた。
「暑い」
「水、そこにあるよ」
息子は靴を脱いで、水を飲んだ。
「疲れた?」
「少し」
「先に休む?」
「大丈夫」
劉が台所から声をかける。
「魚、焼けたよ」
「ちょうどよかった」
三人で食卓を囲んだ。
魚は少し大きかった。
「多かったかな」
劉が言った。
「大丈夫。食べるよ」
息子は笑った。
「これ、久しぶりだな」
「そう?」
「家で食べると違うね」
周は何も言わず、魚を取り分けた。
食事の途中で、息子が仕事の話をした。
「来月から、朝が少し早くなる」
「この前言ってたやつか」
「うん」
「もう決まったんだな」
「決まった」
「体は大丈夫そうか?」
「今のところは」
周は頷いた。
「そうか」
息子は魚を食べながら続けた。
「最初は嫌だったんだけど、実際の時間を見たら、思ったほどではなかった」
「そういうこともあるな」
「うん。やってみてから考える」
周は笑った。
「それでいいんじゃないか」
劉は二人の話を聞きながら、ご飯をよそった。
「朝が早いなら、夜は早く寝ないとね」
「分かってる」
「ちゃんと寝るんだよ」
「うん」
それ以上、仕事の話は続かなかった。
食後、息子は皿を洗った。
周は庭へ出た。
少しして、息子も出てきた。
「実、前より大きくなったね」
「そうだな」
「何になるんだろう」
「分からない」
「まだ調べてないんだ」
「調べてない」
息子は笑った。
「父さん、最近『分からない』ってよく言うね」
「分からないものは分からないからな」
「昔は、分からないとすぐ調べろって言ってた」
周は少し笑った。
「そうだったな」
「俺も昔、何でも答えを出さないといけないと思ってた」
「今は?」
「分からないままでも、少し待っていいんだと思う」
周は返事をしなかった。
庭の葉が風に揺れた。
息子がスマートフォンを見た。
「明日の朝、早いから、今日は早く寝る」
「そうしろ」
「父さんも」
「俺は大丈夫」
「無理しないでよ」
周は少し笑った。
「分かってる」
息子が家へ戻った。
周は一人で庭に残った。
小さな実は、夕方の光の中で静かに揺れていた。
何になるのかは、まだ分からない。
けれど、急いで答えを出す必要もなかった。
夜になれば、三人で過ごす時間は終わる。
明日の朝には、また息子は自分の場所へ戻る。
周と劉も、自分たちの一日へ戻る。
帰ってくることと、ずっと一緒にいることは、同じではない。
周はそう思いながら、庭の戸を閉めた。
居間から息子の笑い声が聞こえた。
劉も笑っている。
周はその声を聞きながら、家の中へ戻った。




