第一百一十四章 帰る時間
八月に入ると、朝から暑かった。
周は目を覚ますと、最初に窓を開けた。
外から蝉の声が入ってくる。
風はほとんどない。
「今日は暑いね」
劉が台所から言った。
「昨日より暑そうだな」
「買い物、午前中に行った方がいいよ」
「そうする」
朝食を済ませ、周は財布を持って家を出た。
市場へ向かう途中、先日の文房具店の前を通った。
店はまだ開いていなかった。
入口には、営業時間を書いた紙が貼られている。
十時から午後六時まで。
以前より短くなっていた。
周は少し立ち止まったが、そのまま市場へ向かった。
市場では、いつもより人が少なかった。
暑さのせいだろう。
野菜を買っていると、後ろから声をかけられた。
「周さん?」
振り返ると、以前近所に住んでいた女性だった。
「久しぶり」
「本当に久しぶりね」
「最近見なかったな」
「娘のところに行ってたの」
「そうか」
女性は買い物袋を持っていた。
「娘さん、今どこにいるんだ?」
「隣の市」
「仕事?」
「うん。結婚して、向こうで暮らしてる」
周は頷いた。
「そうか」
「でも、最近また仕事を変えたのよ」
「そうなのか」
「前の会社が合わなかったみたい」
女性は少し笑った。
「最初は、また変えるのかって思ったけどね」
「今は?」
「本人が決めたなら、仕方ないかなって」
「そうだな」
「母親だから心配はするけど、毎回口を出してもね」
周は何も言わずに頷いた。
女性は買い物袋を持ち直した。
「じゃあ、またね」
「気をつけて」
市場を出たあと、周はしばらくその女性の言葉を考えていた。
心配することと、口を出すこと。
近いようで、同じではない。
家に戻ると、劉が洗濯物を干していた。
「誰かに会った?」
「前に近所にいた人」
「誰?」
周が名前を言うと、劉も思い出した。
「ああ、あの人」
「娘さん、仕事を変えたらしい」
「また?」
「そうらしい」
劉は洗濯物を竿に掛けながら言った。
「若い人は仕事をよく変えるね」
「仕事の数も多くなったからな」
「昔は、辞めたら次がないって感じだった」
「今もそういう人はいるだろう」
「そうだね」
劉は少し考えた。
「でも、昔と今では、探し方も違うんだろうね」
「スマートフォンで探せるからな」
「私たちの頃は、知り合いに聞くしかなかった」
「そうだな」
昼食のあと、周は居間で少し横になった。
午後三時ごろ、スマートフォンが鳴った。
息子からだった。
「来週、土曜日なら帰れる」
「そうか」
「一泊して、日曜日の朝に戻る」
「分かった」
「仕事の時間が変わったから、前より早く帰らないといけない」
「そうか」
「だから、あまり長くはいられない」
「それでいい」
息子が少し黙った。
「魚、食べたい」
周は笑った。
「分かった」
「何か手伝う?」
「帰ってきてからでいい」
「うん」
電話が終わった。
劉が隣から聞いた。
「帰ってくるの?」
「土曜日」
「一泊?」
「そう」
「じゃあ、魚買わないとね」
「そうだな」
劉はすぐに冷蔵庫を開けた。
「土曜日なら、これくらい買えば足りるかな」
「まだ四日あるぞ」
「忘れないように見えるところに書いておく」
冷蔵庫の横に、小さな紙が貼られた。
土曜日――魚。
周はその字を見て笑った。
「そこまでしなくても覚えてるだろ」
「あなたが忘れるから」
「俺は忘れない」
「前に忘れたでしょう」
「いつ?」
「去年」
周は思い出せなかった。
「まあいい」
劉は笑った。
夕方、周は庭へ出た。
白い花は完全になくなっていた。
代わりに、茎の先に小さな実ができている。
以前より少し大きくなっている。
周は手を伸ばしかけて、やめた。
触らない方がいい気がした。
庭の外から、自転車の音が聞こえた。
朝に会った若い男だった。
「周さん」
「おう」
「父親、今日休みなんです」
「そうか」
「家にいると、また仕事の話をされるんですよ」
周は笑った。
「お前も大変だな」
「でも今日は、俺から何も言わないことにしました」
「それで?」
「父親も、しばらく何も言わなかった」
「そうか」
「それだけなんですけど」
「それだけでもいいんじゃないか」
若い男は少し笑った。
「そうですね」
自転車を押して、自分の家へ戻っていった。
周はその背中を見送った。
少しして、隣の家から男の声が聞こえた。
何を話しているのかは分からない。
聞こうとも思わなかった。
周は庭へ戻った。
小さな実は、夕方の光の中で静かに揺れている。
来週、息子が帰ってくる。
一泊して、また仕事へ戻る。
昔なら、帰ってくる日をもっと大きな出来事として考えていたかもしれない。
今は、一泊なら一泊でいいと思う。
帰ってきた時間を一緒に過ごして、帰る時間になれば送り出す。
そのあとには、また二人の生活が続く。
それでいい。
周はそう思いながら、庭の戸を閉めた。
家の中では、劉が冷蔵庫の紙を見ていた。
「土曜日、魚ね」
「分かってるよ」
「忘れないでね」
「分かってる」
二人の声が、暑い夕方の家の中に残った。




