第一百一十一章 店の明かり
七月に入ると、昼間の暑さが急に強くなった。
朝から蝉の声が聞こえる。
周は窓を開けたが、入ってくる風は暖かかった。
「今日は暑くなるね」
劉が言った。
「昼にはもっと暑くなるだろうな」
朝食を済ませたあと、周は買い物に出た。
駅前まで行く途中、いつもの文房具店の前を通った。
先日、営業時間が変わったと言っていた店だ。
今日は午前十時を少し過ぎている。
店は開いていた。
店主が入口に椅子を出して座っている。
「おはよう」
周が声をかけると、店主が顔を上げた。
「おはよう。暑いね」
「暑いな」
「朝からもうこれだよ」
店主は店の中を見た。
「昔は子どもが学校へ行く前に寄ってくれたんだけどね」
「今は?」
「学校の近くに大きな店ができたから、そっちへ行く子が多い」
周は店先に並んだノートを見た。
「それでも続けてる」
「うん。常連もいるから」
「一人で?」
「今はね」
店主は少し笑った。
「妻が午前中だけ手伝ってくれることもあるけど、最近は家のこともあるから」
周はそれ以上聞かなかった。
店の奥では、古い扇風機が回っている。
その音を聞きながら、昔息子がここでノートを買っていたことを思い出した。
「うちの息子も昔、よく来てた」
「そうだったね」
店主も覚えていた。
「数学のノート、いつも同じのを買ってた」
「よく使ったからな」
「真面目だったよね」
周は少し笑った。
「今はもう、あまり家にいないけど」
「そういう年頃だよ」
店主はそれだけ言った。
周は店を出た。
市場へ行くと、いつもより人が少なかった。
暑いからだろう。
野菜を買い、豆腐を買った。
帰ろうとしたところで、スマートフォンが鳴った。
息子からだった。
「今、仕事終わった」
「今日は早いな」
「うん」
「大丈夫か?」
「大丈夫」
少し間があってから、息子が言った。
「この前の勤務時間の話、決まった」
「そうか」
「来月から少し早くなる」
「毎日?」
「平日はそうなるみたい」
「体は大丈夫そうか?」
「たぶん。今のところは」
周は何か言おうとしたが、やめた。
「無理だったら、また考えればいい」
「うん」
「それだけだ」
「分かった」
電話を切った。
家に帰ると、劉が荷物を受け取った。
「息子から?」
「仕事の時間が決まったって」
「どうなるの?」
「来月から少し早くなる」
「朝が早くなるの?」
「そうらしい」
劉は少し考えた。
「大丈夫かな」
「本人は大丈夫って言ってた」
「なら、いいか」
劉は冷蔵庫に野菜を入れた。
「前だったら、あなたがもっと心配してたね」
「今も心配してるよ」
「でも、言わない」
「言っても、決めるのは本人だからな」
劉は何も答えなかった。
昼食のあと、二人で少し昼寝をした。
午後三時を過ぎると、外から蝉の声がさらに大きくなった。
周は庭へ出た。
白い花は、数日前より花びらが減っていた。
土の上に落ちた花びらを見ていると、隣の家から子どもの声が聞こえた。
「お母さん、暑い!」
「窓閉めて!」
「暑いから嫌!」
そんな声がしばらく続いた。
周は笑った。
子どもの頃は、暑いことも寒いことも、家の大人に文句を言う。
大きくなれば、自分で扇風機をつける。
さらに大きくなれば、暑い場所を避ける仕事を選ぶこともある。
どこまで親が決められるのかは、年齢によっても変わっていく。
周はそう考えたが、すぐに考えるのをやめた。
庭のホースを片付けた。
夕方、買い物に出ると、文房具店の前は閉まっていた。
入口に小さな紙が貼ってある。
「本日は午後六時まで」
その下に、手書きで、
「明日は十時から」
と書かれていた。
周は少し立ち止まった。
店がなくなるわけではない。
ただ、店の時間が変わった。
以前と同じように続けることができなくなれば、続け方を変える。
それだけのことなのかもしれない。
家に帰ると、劉が夕食を作っていた。
「今日は魚?」
「違うよ。野菜炒め」
「そうか」
「魚、買おうと思ったけど、二人だからやめた」
「それでいい」
夕食の途中で、息子から写真が送られてきた。
仕事帰りらしい。
夕方の空と、駅前の道路が写っている。
周は写真を見た。
「今日、きれいな空だな」
と送った。
しばらくして、
「そっちは?」
と返ってきた。
周は庭へ出て写真を撮った。
白い花は、もう少ししか残っていない。
それを送った。
「まだ咲いてる」
息子から、
「もうすぐ終わりそうだね」
と返ってきた。
周は画面を見た。
「そうだな」
それだけ返した。
夜、花びらが一枚、風に飛んだ。
周は拾わなかった。
明日になれば、また何枚か落ちるだろう。
庭の植物も、店の営業時間も、仕事の時間も、少しずつ変わっていく。
同じ場所にいるからといって、何も変わらないわけではない。
周は戸を閉め、居間へ戻った。
テレビでは、知らない町のニュースが流れていた。
劉が、
「お茶、飲む?」
と聞いた。
「うん」
いつもの夜だった。




