第一百一十章 帰ったあとの家
息子が帰ってから三日ほど経った。
家の中は、また二人分の生活に戻っていた。
朝、周はいつもの時間に起きた。
息子が使っていた布団は、劉が畳んで押し入れにしまった。
枕も元の場所に戻っている。
洗面所には、息子が使った歯ブラシが一本だけ残っていた。
「これ、どうする?」
劉が聞いた。
「そのままでいいんじゃないか」
「次にいつ来るか分からないよ」
「来たとき使うだろ」
劉は少し考えて、そのまま置いておいた。
朝食のあと、周は庭へ出た。
白い花はまだ咲いている。
昨日より少しだけ花びらが開いていた。
周は水をやった。
「水、やりすぎじゃない?」
劉が後ろから言った。
「少しだけだ」
「この前、雨が降ったでしょう」
周は土を見る。
確かにまだ湿っていた。
「今日はこれくらいでいいか」
そう言って、じょうろを置いた。
午前中、近所の王がやってきた。
「息子さん、帰ってきたんだって?」
「この前な」
「仕事はどう?」
「続けてるみたいだ」
王は頷いた。
「うちの息子も、最近は少し落ち着いてる」
「そうか」
「前は仕事の話を聞くたびに、俺が先に心配してたんだよ」
周は笑った。
「今は?」
「聞かれたら答えるようにしてる」
「それでいいんじゃないか」
王は庭を見た。
「花、咲いたな」
「昨日から」
「何の花?」
「分からない」
「調べればいいのに」
「みんな同じこと言うな」
王は笑った。
「でも、名前が分からなくても困らないか」
「今のところはな」
二人で花を見ていた。
しばらくして王が、
「この前、息子に昔のことを言われたんだ」
と言った。
周は王を見る。
「何を?」
「俺が昔、仕事を選べって言ったこと」
「まだ覚えてた?」
「覚えてたらしい」
「そうか」
「俺は忘れてた」
周は何も言わなかった。
王は庭の土を見ながら続けた。
「本人にとっては、忘れられないこともあるんだな」
「そういうこともある」
「俺はそんなに強く言ったつもりなかったんだけどな」
周は少し考えてから、
「言った側と聞いた側では、残り方が違うからな」
と言った。
王は頷いた。
「そうだな」
それ以上、二人は話さなかった。
昼前、王が帰ったあと、周は古い物置を整理した。
使わなくなったバケツ、壊れた椅子、古い段ボール。
その中に、息子が小学生の頃に使っていた縄跳びがあった。
周は手に取った。
まだ使えそうだった。
「それ、何?」
劉が物置の入口から覗いた。
「昔の縄跳び」
「まだあったの?」
「あった」
「捨てる?」
周は縄跳びを見た。
「もう使わないだろうな」
「じゃあ、捨てようか」
「うん」
周はゴミ袋に入れた。
特別な気持ちはなかった。
昔は、子どもの物を捨てるだけでも少し迷った。
今は、使わなくなった物は、使わなくなった物として片付けられる。
物がなくなったからといって、過去までなくなるわけではない。
午後、周は市場へ出た。
帰り道、以前の文房具店の前で、店主が店先を掃いていた。
「最近、営業時間変わったね」
周が言うと、店主が笑った。
「朝がきつくなってね」
「体?」
「そう。朝早く起きるのが少しつらくなった」
「じゃあ、無理しない方がいいな」
「そう思ってる」
店主は箒を壁に立てかけた。
「店を閉めようかとも思ったんだけどね」
「まだ続けてる」
「客は減ったけど、なくなると困る人もいるから」
「そうか」
「でも、いつまで続けられるかは分からない」
周は店の中を見た。
昔からあるノートや鉛筆が並んでいる。
「分からないことが多いな」
店主が笑った。
「そうだね。最近は特に」
周も笑った。
家に戻ると、劉が買い物袋を受け取った。
「今日は何買ったの?」
「野菜だけ」
「魚は?」
「今日は二人分だからな」
「そう」
夕方、息子からメッセージが届いた。
「昨日の果物、おいしかった」
周は、
「そうか」
と返した。
少しして、
「また帰れるとき連絡する」
と届いた。
周は画面を見てから、
「無理しなくていい」
と返した。
しばらく返信はなかった。
周はスマートフォンを机に置いた。
劉が夕食を並べる。
「何だって?」
「果物がおいしかったって」
「そう」
劉は少し笑った。
「じゃあ、また買っておこうか」
「帰ってくるか分からないぞ」
「腐る前に二人で食べればいいよ」
「それもそうだな」
二人は夕食を食べた。
窓の外では、風が少し強くなっていた。
周は食後に庭へ出た。
白い花はまだ残っている。
何枚かの花びらが落ちて、土の上に白い点ができていた。
周はそれを拾わなかった。
明日にはもっと落ちるかもしれない。
それでも、花が咲いていた時間まで消えるわけではない。
周はしばらく庭に立ってから、家の中へ戻った。
戸を閉める。
居間では劉がテレビを見ていた。
息子が帰ったあとの家は、また静かになっていた。
けれど、静かになっただけだった。
何かが終わったわけではない。
それぞれの生活が、またそれぞれの場所で続いている。




