第一百零八章 夜の帰り
翌日の夕方、周は市場へ向かった。
空は曇っていたが、雨は降っていなかった。
魚売り場の前で、周はしばらく魚を見ていた。
「今日は買うんですか」
店員が声をかけた。
「息子が帰ってくるから」
「それはいいですね」
周は一匹選んだ。
「これください」
家に戻ると、劉が野菜を切っていた。
「買ってきた?」
「買った」
「何時ごろ来るって?」
「九時過ぎ」
「遅いね」
「仕事が終わってからだからな」
劉は時計を見た。
「じゃあ、先に食べようか」
「息子を待たなくていいのか?」
「帰ってくる時間が分からないから、冷めちゃうよ」
周は少し考えた。
「そうだな」
二人で夕食を食べた。
魚はまだ焼かなかった。
食事が終わったあと、劉はテレビをつけた。
周はスマートフォンを見た。
まだ連絡はない。
八時を過ぎても連絡はなかった。
九時になった。
劉が時計を見る。
「まだだね」
「仕事が長引いてるのかもしれない」
「そうだね」
九時半になって、ようやく電話が鳴った。
「今、駅に着いた」
息子の声だった。
「そうか」
「あと二十分くらい」
「気をつけて来い」
「うん」
電話を切ると、劉が立ち上がった。
「じゃあ、魚焼こうか」
「まだ早いんじゃないか?」
「帰ってきてから焼く」
「そうだな」
劉は魚を冷蔵庫から出した。
その間、周は玄関の外へ出た。
夜の道路は静かだった。
遠くから車の音が聞こえる。
しばらくして、角を曲がる人影が見えた。
息子だった。
肩にバッグを掛けている。
「ただいま」
「おかえり」
「遅くなった」
「仕事、大変だったか?」
「今日はちょっと長かった」
「そうか」
周は息子のバッグを見た。
「重いな」
「仕事の資料が入ってる」
「置いておけ」
「うん」
家の中へ入ると、劉がすぐに魚を焼き始めた。
「お腹空いてる?」
「少し」
「ご飯、今から温めるね」
「ありがとう」
息子は手を洗い、居間の椅子に座った。
「最近、どう?」
劉が聞いた。
「普通」
「仕事は?」
「今のところは続けてる」
「忙しい?」
「前より少し」
周は黙って聞いていた。
息子は水を飲んだ。
「来月から、また勤務時間が変わるかもしれない」
「決まったのか?」
「まだ。会社が調整してる」
周は一度だけ頷いた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
息子は周を見た。
「それだけ?」
「まだ決まってないんだろ?」
「うん」
「決まったら聞けばいい」
息子は少し笑った。
「昔だったら、いろいろ聞いてたよね」
「そうだな」
「何時から何時までなのかとか、給料はどうなのかとか」
「聞いてたな」
「今は聞かないんだ」
周は魚を見ながら言った。
「俺が聞いても、会社のことは分からないからな」
「そうだね」
三人で夕食を食べた。
劉は魚の骨を取りながら、
「来月も帰ってこられる?」
と聞いた。
息子は少し考えた。
「まだ分からない」
「そう」
劉はそれ以上聞かなかった。
魚を食べ終わると、息子が皿を片付け始めた。
「置いといていいよ」
「いや、やるよ」
「仕事で疲れてるんじゃない?」
「これくらいなら大丈夫」
周は何も言わなかった。
台所から水の音が聞こえる。
しばらくして、息子が戻ってきた。
「そういえば、庭の植物どうなった?」
「大きくなったぞ」
「まだ名前分からない?」
「分からない」
息子が外へ出た。
周も後からついていった。
夜なので、植物の形はよく見えない。
息子がスマートフォンのライトをつけた。
「これ、花じゃない?」
「そうかもしれない」
小さなつぼみが、昼間より少し開いていた。
「明日の朝、見てみよう」
息子が言った。
「そうだな」
二人はしばらく庭に立っていた。
昔なら、周は息子の仕事について何か言っていただろう。
今も心配していないわけではない。
ただ、息子が自分で話す前に、先に答えを作る必要はないと思うようになっていた。
庭の向こうで、隣の家の明かりが消えた。
息子があくびをした。
「眠い?」
「ちょっと」
「風呂、先に入れ」
「うん」
息子が家の中へ戻る。
周は一人で庭に残った。
つぼみは暗闇の中で、まだ完全には開いていない。
明日の朝になれば、どうなっているか分かる。
周はそれを確認するために、もう一度だけ庭を見た。
それから戸を閉めた。




