第一百零六章 帰ってきた知らせ
六月の半ば、朝から雨が降っていた。
周は窓を少しだけ開けて、外を見た。
庭の土は黒く濡れている。
先月まで小さかった葉が、いつの間にか手のひらほどになっていた。
「大きくなったね」
後ろから劉の声がした。
「そうだな」
「何の植物か、まだ分からない?」
「分からない」
「名前くらい調べたら?」
「そのうち」
劉は笑って、台所へ戻った。
午前中、周は家の中の古い棚を整理した。
棚の奥から、何年も使っていない工具箱が出てきた。
錆びたドライバー、古い巻尺、何本かの釘。
その中に、昔使っていた小さな電池式の懐中電灯があった。
周は電池を入れ替えてみた。
明かりはつかなかった。
「もう壊れてるね」
劉が横から見た。
「そうだな」
「捨てる?」
周はしばらく手に持ったまま考えた。
「まだ置いとく」
「使わないのに?」
「いつか使うかもしれない」
劉は何も言わず、棚の横に置いた。
昼前、近所の王が傘を持ってやって来た。
「周さん、いる?」
「いるよ」
王は玄関に入るなり、濡れた靴を脱いだ。
「この前話してた息子の仕事だけど、少し変わった」
「どうした?」
「部署が変わった」
「そうか」
「本人は大丈夫だって言ってる」
「それならよかったな」
王は椅子に座った。
「俺は最初、また何かあったのかと思ったんだよ」
「仕事の話を聞くと、すぐ心配になる?」
「なるな」
「俺もそうだ」
王は笑った。
「でも、今回は何も言わなかった」
「そうか」
「聞こうとは思ったけど、本人から話すまで待った」
周は頷いた。
「どうだった?」
「昨日、本人から話してきた」
王は少し嬉しそうだった。
「前なら、俺が先に聞いてたと思う」
「そういうこともあるな」
「聞かないと、何も分からないと思ってたんだよ」
王は窓の外を見た。
「でも、聞かないでいると、向こうから話すこともあるんだな」
周は返事をしなかった。
雨が屋根を叩く音がしていた。
しばらくして王が立ち上がった。
「じゃあ、俺、そろそろ帰る」
「雨、まだ強いぞ」
「すぐそこだから大丈夫」
王は傘を開いて、道路を渡っていった。
午後になって雨が少し弱くなった。
周は買い物に出た。
スーパーの入口で、若い男が電話をしていた。
「うん。今から帰る」
短い会話だった。
電話を切ったあと、男はしばらく画面を見ていた。
周はその横を通り過ぎた。
昔なら、何を話していたのか気になったかもしれない。
今は、知らないことは知らないままでいいと思うようになった。
魚売り場を見ると、ちょうど新しい魚が並べられていた。
周は一匹手に取った。
少し考えてから、元に戻した。
息子がいつ帰ってくるかは、まだ決まっていない。
帰ってくる日に買えばいい。
野菜と豆腐だけを買って、家に戻った。
夕方、スマートフォンが鳴った。
息子からだった。
「来週、土曜日に帰れるかもしれない」
周は画面を見た。
「まだ決まってない?」
「うん。明日には分かると思う」
「分かった」
「決まったら連絡する」
「うん」
電話はすぐに終わった。
劉が台所から顔を出した。
「息子?」
「そう」
「帰ってくる?」
「まだ決まってない」
「そう」
劉はそれ以上聞かなかった。
周は少し意外に思った。
以前なら、何時に来るのか、何を食べたいのか、何日いるのかと続けて聞いていた。
今日は聞かなかった。
「魚、買ってないよ」
周が言った。
「決まってからでいいよ」
劉はそう答えた。
夜、雨は止んでいた。
周は庭へ出た。
濡れた葉に、小さな水滴が残っている。
支柱はまだ少し曲がっていた。
周は手で軽く押してみた。
今度は直すことにした。
土に差し直し、紐を結び直す。
強く締めすぎないようにした。
葉が動けるくらいの余裕を残した。
家の中から劉が呼んだ。
「ご飯できたよ」
「今行く」
周は庭をもう一度見た。
植物の名前は、まだ分からない。
いつまで育つのかも分からない。
それでも、今日は今日の分だけ伸びていた。
周は玄関へ戻った。
その夜、息子からもう一度連絡が来ることはなかった。
翌日のことは、まだ翌日のままだった。




