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家にいる人  作者: 亀


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第一百零四章 聞かなかったこと

五月の終わり、朝から細い雨が降っていた。


周はいつものように庭へ出たが、今日は傘を持っていた。


名前の分からない植物の葉には、水滴がいくつもついている。


周は軒下からしばらく眺めた。


「今日は水、いらないね」


後ろから劉が言った。


「そうだな」


「毎日見てるけど、飽きないの?」


「昨日と違うからな」


「そんなに違う?」


「少しだけ」


劉は笑った。


「よく見てるね」


周は返事をせず、雨の音を聞いていた。


午前中、王が傘を差してやってきた。


「雨なのにどうした?」


「ちょっと近くまで来たから」


王は軒下に入った。


「息子のことなんだけど」


「うん」


「この前、仕事を変えるかもしれないって話しただろ」


「そうだったな」


「結局、もう少し続けることにした」


「そうか」


王は少し笑った。


「俺、最初は反対しようと思ってた」


「どうして?」


「また辞めるのかって思ったから」


「それで?」


「本人に聞いたら、今の仕事で少し任されることが増えたらしい」


周は黙って聞いた。


「そんなこと、俺は知らなかった」


王は窓の外を見た。


「仕事の話をしても、給料とか時間とか、そういうことしか聞いてなかったから」


「それでも、仕事の一部しか分からないだろ」


「そうだな」


王は笑った。


「だから、今回は何も言わなかった」


「それで?」


「息子が自分で決めた」


雨が少し強くなった。


王はしばらく庭を見ていた。


「でも、まだ心配なんだよ」


「そりゃそうだろ」


「心配することと、口を出すことは別なのかもしれないな」


周は頷いた。


「そうだな」


王はそれ以上話さず、雨が弱くなったところで帰っていった。


昼過ぎ、周は家の中で古い書類を整理していた。


昔の仕事の契約書。


銀行の明細。


息子が学生だったころの学校関係の書類。


一枚ずつ確認していると、古い封筒が出てきた。


中には、息子が中学生だったころに書いた紙が入っていた。


数学の問題だった。


周が赤い鉛筆で何かを書き込んでいる。


「ここ、違う」


その文字を見て、周は手を止めた。


劉が隣から覗き込んだ。


「何?」


「昔のやつ」


「まだ取ってたんだ」


「書類の中に入ってただけだ」


劉は紙を見た。


「このころ、毎日勉強見てたよね」


「ああ」


「厳しかった?」


周は少し考えた。


「厳しかったと思う」


「息子、嫌だったって言ってたね」


「うん」


劉はそれ以上言わなかった。


周は紙を封筒へ戻した。


「捨てる?」


劉が聞いた。


「いや」


「残すの?」


「分からない」


「また?」


「これは、もう少し置いとく」


劉は笑った。


午後、雨が止んだ。


周は庭へ出た。


水たまりを避けながら、植物の周りを見て回る。


一枚の葉が少し折れていた。


周は指でそっと戻した。


そのとき、向こうから隣の若い男が歩いてきた。


「周さん」


「どうした?」


「父が、今度の仕事のことを話してくれました」


「そうか」


「続けることにしたみたいです」


「本人が決めたなら、それでいいだろ」


男は頷いた。


「僕も、何も言わないようにしました」


「そうか」


「でも、何も言わないって、結構難しいですね」


周は笑った。


「そうだな」


「心配だから、何か言いたくなる」


「それは普通だろ」


「周さんも?」


「俺もだよ」


男は少し驚いたように笑った。


「そうなんですね」


「心配しないわけじゃない」


周は折れた葉を見た。


「ただ、心配してるからって、全部言う必要はないからな」


男はしばらく黙っていた。


「分かりました」


そう言って、家へ戻っていった。


夕方、劉が夕飯を作っていると、周のスマートフォンが鳴った。


息子からだった。


「今日、仕事の帰りが遅くなった」


「お疲れ」


「父さん、この前の話なんだけど」


「うん」


「もう少し今の仕事を続けてみることにした」


「分かった」


「それだけ?」


周は少し笑った。


「何て言えばいい?」


「いや、別に」


息子も笑った。


「じゃあ、また」


「うん」


電話が切れた。


劉が聞いた。


「どうだった?」


「仕事、続けるって」


「そう」


「それだけ」


劉は鍋をかき混ぜながら言った。


「昔なら、理由を聞いてたね」


「聞いてたな」


「今は聞かないの?」


「本人が話したければ話すだろ」


劉は少し考えてから、


「そういうところ、変わったね」


と言った。


周は答えなかった。


変わったのかもしれない。


ただ、昔の自分が全部なくなったわけではない。


息子のことが心配になる。


仕事がうまくいっているか気になる。


帰ってくる日も知りたい。


それでも、知らないことを全部聞こうとは思わなくなった。


夕飯のあと、周は昼間の封筒を机の引き出しへ戻した。


捨てることもしなかった。


息子に見せることもしなかった。


昔の一枚の紙を、昔のまま置いておく。


それだけだった。


夜、庭へ出ると、雨上がりの土から湿った匂いがした。


葉の先から、水滴が一つ落ちた。


周はしばらくその場に立っていた。


言わなかったこと。


聞かなかったこと。


昔なら、そのどちらも気になって仕方がなかった。


今は、全部を言葉にしなくても、関係が続いていくことがあると少しずつ分かってきた。


それでも、言う必要のあることまで言わなくていいとは思わない。


ただ、その境目を決めるのは、いつも簡単ではなかった。


周は庭の門を閉めた。


家の中では、劉がテレビをつけていた。


いつもの夜だった。

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