第一百零三章 見えないところ
五月の半ばになると、昼間はもう上着がいらない日が増えた。
周は朝、庭へ出ると、まず土の乾き具合を見るようになっていた。
名前の分からない植物は、いつの間にか周の腰くらいまで伸びている。
「大きくなったね」
劉が隣に立った。
「そうだな」
「最初は、何の芽かも分からなかったのに」
「今も分からないけどな」
二人は笑った。
その日の午後、周は近所の郵便局へ行った。
帰り道、道端で若い男がスマートフォンを見ながら立っていた。
周が通り過ぎようとすると、男が顔を上げた。
「周さん」
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
男は少し迷ってから言った。
「父が、また仕事を変えるって言ってるんです」
「そうか」
「前の仕事を辞めたばかりなのに、もう次も辞めるかもしれないって」
周は黙って聞いた。
「僕は、もう少し続けたほうがいいと思うんです。でも父は、今の仕事は自分には合わないって」
「お父さんは、何て言ってる?」
「体がきついって」
「それなら、続けるかどうかは本人が考えることだろう」
男は少しうつむいた。
「でも、仕事を辞めたら生活が大変になるし」
「それは、お父さんも分かってるんじゃないか」
「たぶん」
「だったら、そこまで決めてあげなくてもいいんじゃないか」
男は少し黙った。
「周さんも、息子さんにはそうしてるんですか?」
周はすぐには答えなかった。
「前は、そうじゃなかった」
「今は?」
「今は、聞かれたら話す。でも、聞かれてないことまで決めないようにしてる」
男は頷いた。
「それ、難しくないですか?」
「難しいよ」
周は笑った。
「心配なら、口を出したくなるからな」
「じゃあ、どうして我慢できるんですか?」
周は少し考えた。
「我慢してるだけかもしれない」
男も笑った。
「なるほど」
それ以上話さず、二人は別れた。
周が家に戻ると、劉が台所にいた。
「誰だったの?」
「隣の人」
「また仕事の話?」
「そう」
「仕事って、みんな大変だね」
「そうだな」
劉は野菜を洗いながら、
「あなたも昔、仕事を辞めたいって思ったことあった?」
と聞いた。
周は少し考えた。
「何度もあった」
「でも辞めなかった」
「辞められなかったこともある」
劉は水を止めた。
「辞めたいと思うことと、辞められることは違うんだね」
「そうだな」
「私、昔は仕事を続けてる人のほうが我慢強いと思ってた」
「俺もそう思ってた」
「今は?」
「続ける理由も、辞める理由も、人によって違うだろ」
劉は頷いた。
その夜、周の息子から電話があった。
「父さん、今いい?」
「いいよ」
「仕事のことで少し話したい」
周は椅子に座った。
「どうした?」
「今のところ、続けるつもり」
「そうか」
「前に話したこと、もう少し考えたんだけど、今は辞めないほうがいいと思った」
「分かった」
「でも、ずっと続けるかは分からない」
「それでいいんじゃないか」
電話の向こうで少し笑う声がした。
「父さん、最近そういう言い方するね」
「何が?」
「決めなくてもいいって」
周も笑った。
「全部決められるわけじゃないからな」
「うん」
少し沈黙があった。
息子が言った。
「この前帰ったとき、昔の部屋を見て思ったんだけど」
「何?」
「俺が子どものころ、父さんが仕事のことを全部決めてたの、結構覚えてる」
周は黙った。
「そうだったな」
「嫌だったこともある」
周はすぐには返事をしなかった。
「そうか」
「でも、今になって考えると、父さんも分からなかったんだろうね」
「……そうかもしれない」
息子はそれ以上続けなかった。
周も、昔のことを一つずつ説明しようとはしなかった。
「今度帰ったら、また話そう」
「うん」
電話が切れた。
周はしばらく椅子に座っていた。
劉が向こうから、
「どうしたの?」
と聞いた。
「昔の話」
「また?」
「うん」
「何か言われた?」
周は少し考えた。
「嫌だったことがあったって」
劉は黙った。
「それで?」
「それだけ」
「あなたは何て言ったの?」
「そうか、って」
劉は少し驚いた顔をした。
「それだけ?」
「今は、それしか言えなかった」
劉は何も言わなかった。
夜が静かになってから、周は一人で庭へ出た。
植物は暗くてよく見えない。
それでも、葉が風に揺れている。
昔のことは、もう戻せない。
何を言えばよかったのかも、今になって全部分かるわけではない。
ただ、息子が覚えていることを、自分が覚えていないことはある。
それを聞いたときに、
「そんなことはなかった」
と言わないことだけはできる。
周は庭の土を少し踏んだ。
翌朝になれば、また普通に仕事の話をするだろう。
野菜を買いに行く。
庭に水をやる。
息子から連絡が来れば返事をする。
昨日までのことが消えるわけではない。
それでも、次の日は次の日としてやってくる。
周はしばらく庭に立ったあと、家の中へ戻った。




