第一百零二章 それぞれの時間
五月に入ると、朝の空気が少し柔らかくなった。
周は以前より早く庭へ出るようになっていた。
名前の分からない植物には、新しい葉がいくつも出ている。
支柱も、今のところ倒れていない。
周は水をやりながら、葉の裏側まで眺めた。
「今日はずいぶん長いね」
後ろから劉が言った。
「虫がいないか見てる」
「虫まで見るようになったの?」
「葉が増えたからな」
劉は笑った。
朝食を終えたあと、周は近所の修理店へ行った。
以前使っていた電動工具のコードが傷んでいた。
店の主人は、工具を手に取ってしばらく確認した。
「直せるけど、部品代が少しかかるよ」
「いくら?」
金額を聞いて、周は工具を見た。
新しいものを買うよりは安い。
ただ、今後どれくらい使うかは分からなかった。
「今日は持って帰る」
「直さないの?」
「もう少し考える」
主人は頷いた。
「分かった。急がなくていいよ」
店を出たところで、周は昔の同僚、陳と会った。
「周さん、何してるの?」
「工具を見てもらってた」
「まだ使うの?」
「分からない」
陳は笑った。
「最近、その言葉が多いね」
「そうか?」
「前だったら、すぐ決めてたじゃない」
二人は近くの店の前で少し話した。
陳は最近、娘が大学を卒業したと話した。
「仕事、もう決まったのか?」
「一応、いくつか話があるらしい」
「決まってないの?」
「まだ」
陳は少し困ったように笑った。
「親としては、早く決めてほしいと思うんだけどな」
「娘さんは何て言ってる?」
「焦ってないって」
周は頷いた。
「じゃあ、焦ってないんだろ」
「そうなんだけど……」
陳はそこで言葉を止めた。
「昔は、卒業したらすぐ働くものだったからな」
「今は違うんだろ」
「そうだな」
陳は道路の向こうを見た。
「自分が知らないことが増えた気がする」
周は少し笑った。
「俺もだよ」
二人はしばらく黙っていた。
陳のスマートフォンが鳴った。
「娘からだ」
陳は画面を見て、電話に出た。
「うん。分かった。じゃあ、また帰ってきたら話そう」
電話を切ると、陳は笑った。
「今日は友達と出かけるって」
「それなら、それでいいじゃないか」
「そうだな」
陳はそう言って、自転車に乗った。
「またな」
「また」
周も家へ向かった。
昼過ぎ、劉が市場から戻ってきた。
「陳さんに会った?」
「会った」
「娘さんの話?」
「そう」
「仕事?」
「まだ決まってないみたいだ」
劉は買ってきた野菜を並べながら言った。
「大学を出ても、すぐ決まらないことがあるんだね」
「あるだろ」
「昔は、卒業したら働くものだったのに」
「今も働くんじゃないか」
「そういう意味じゃないよ」
周は笑った。
「分かってる」
午後、周は修理店から持ち帰った工具をもう一度見た。
コードの傷はそれほど大きくない。
しかし、無理に使えば危ない。
周は工具を箱にしまった。
「今日は使わない」
劉が横から見ていた。
「直すの?」
「まだ決めてない」
「まただね」
「壊れたまま使うよりはいいだろ」
「それはそう」
夕方、隣の家から子どもの声が聞こえた。
以前はよく外で遊んでいた子だった。
最近は学校が忙しいのか、姿を見ない日も多い。
その母親が道路から声を掛けた。
「周さん、こんにちは」
「こんにちは」
「この前、息子さん帰ってきたんですよね」
「うん」
「いいですね」
周は少し笑った。
「一泊だけだけどな」
「うちも、いつかそうなるのかな」
「分からないよ」
女性は少し考えてから、
「そうですね」
と答えた。
そのまま子どもを呼びに家へ戻っていった。
周は門のところに立ったまま、しばらくその家を見ていた。
子どもが大きくなれば、学校へ行く。
学校が終われば、仕事を探す。
仕事が決まれば、家を出ることもある。
そうならない人もいる。
どこかへ行く人もいれば、同じ町に残る人もいる。
周には、どれが普通なのか分からなくなっていた。
夜、夕飯を食べていると、息子から連絡があった。
「来週の仕事、少し予定が変わった」
「そうか」
「だから、帰れるかどうかまだ分からない」
「分かった」
「魚はまだ買わなくていいよ」
周は少し笑った。
「それは母さんに言ってくれ」
少しして、劉のスマートフォンが鳴った。
息子からだった。
劉は電話に出ると、
「分かったよ。帰れるときに帰っておいで」
とだけ言った。
電話を切ったあと、劉は周を見る。
「魚、まだ買わなくていいって」
「そうだな」
「せっかく買おうと思ってたのに」
「次でいいだろ」
「そうだね」
夕飯が終わったあと、周は工具箱を物置へ戻した。
庭へ出ると、昼間より葉が大きくなっている。
周はしゃがんで、土の状態を確かめた。
「元気そうだね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
後ろから劉が来た。
「何ていう植物か、まだ分からない?」
「分からない」
「調べれば?」
周は少し考えた。
「別に名前が分からなくてもいいだろ」
劉は笑った。
「そうかもね」
二人は並んで庭を見た。
息子がいつ帰ってくるのか。
陳の娘がどんな仕事を選ぶのか。
隣の家の子どもが大きくなってどこへ行くのか。
工具を修理するのか、新しいものを買うのか。
今すぐ決めなくてもいいことが、家の周りにはいくつもあった。
それぞれの人が、それぞれの時間の中で考えている。
周は、全部を知る必要はないと思うようになっていた。
自分のことは、自分で決める。
誰かのことは、その人が決める。
そして、決まるまでの時間も、その人の生活の一部なのだろう。
夜が深くなり、二人は家の中へ戻った。
庭には、名前の分からない植物だけが残った。
風が吹くたびに、新しい葉が小さく揺れていた。




