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家にいる人  作者: 亀


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第十章 家を出る日

高校を卒業する頃には、子どもはもう家の中で一番背が高くなっていた。


周より少し低い。


劉よりはずっと高い。


玄関に立っている姿を見ると、周は時々不思議な気持ちになった。


昔は、片手で抱き上げることができた。


今では、もうそんなことはできない。


ある日の夕食のあと、子どもが言った。


「大学、県外に行くことになった。」


周は箸を止めた。


「どこだ?」


学校名を聞く。


周は少し考えた。


「遠いな。」


「うん。」


「家から通えない。」


「うん。」


劉が聞いた。


「寮はあるの?」


「ある。」


「じゃあ、そこに住むの?」


「たぶん。」


周はしばらく黙っていた。


「金はどうする?」


「奨学金もあるし、アルバイトもする。」


周はすぐに言った。


「アルバイトは勉強の邪魔になる。」


「でも、自分でも少し出したい。」


「必要な分は俺が出す。」


子どもは顔を上げた。


「全部?」


「必要な分だけだ。」


「でも……」


「心配するな。」


周はそう言った。


その言葉に、子どもは何も返さなかった。


数日後、三人で大学へ行くための荷物を買いに出た。


布団。


衣類。


洗面用品。


小さな電気ポット。


ノート。


文房具。


周は一つ一つ値段を見ていた。


「これは少し高い。」


「でも、長く使えるよ。」


劉が言う。


周は商品を手に取った。


「こっちでいい。」


「それ、安いけど大丈夫?」


「使えればいい。」


子どもは黙って二人を見ていた。


最後には、必要なものが一通り揃った。


帰り道、子どもが言った。


「ありがとう。」


周は前を見たまま答えた。


「これくらい、親がすることだ。」


家に帰ると、荷物を部屋の隅に置いた。


部屋が急に狭くなった。


劉が言った。


「本当に行っちゃうんだね。」


子どもは笑った。


「休みには帰ってくるよ。」


周は何も言わなかった。


その夜、子どもが寝たあと、劉が言った。


「寂しい?」


「何が?」


「この家からいなくなるでしょう。」


周は少し考えた。


「大学へ行くんだから、いいことだ。」


「そうだけど。」


「勉強しに行くんだ。」


「うん。」


二人はしばらく黙っていた。


劉が言った。


「小さい頃は、ずっと家にいると思ってた。」


周は笑った。


「子どもは、ずっと子どもじゃない。」


その言葉を口にしてから、周自身が少し驚いた。


いつの間にか、そんなことを言うようになっていた。


出発の日は朝早かった。


荷物を車に積む。


周が何度も確認する。


「財布は?」


「ある。」


「学生証は?」


「ある。」


「携帯の充電器は?」


「ある。」


「薬は?」


「ある。」


「本当に?」


「あるって。」


子どもが笑う。


周も少し笑った。


劉は後ろから言った。


「あなた、心配しすぎ。」


「忘れたら困るだろ。」


「本人に任せればいいじゃない。」


周は何も言わなかった。


大学へ着くと、周は荷物を部屋まで運んだ。


布団を敷く。


机を拭く。


水を買う。


必要なものを確認する。


子どもは何度も、


「もう大丈夫だよ。」


と言った。


それでも周はなかなか帰ろうとしなかった。


「飯はちゃんと食え。」


「分かってる。」


「夜遅くまで遊ぶな。」


「分かってる。」


「金が足りなかったら言え。」


「うん。」


「病気になったら病院へ行け。」


「分かった。」


周は最後に、


「勉強をちゃんとしろ。」


と言った。


子どもは笑った。


「それは分かってる。」


周も笑った。


三人は大学の寮を出た。


車に戻る。


しばらく走ってから、劉が振り返った。


「忘れ物ない?」


子どもは答えた。


「大丈夫。」


車の中が静かになった。


しばらくして、周の携帯が鳴った。


大学からだった。


必要な書類についての連絡だった。


周が電話を切る。


「明日、俺がまた来る。」


子どもが言った。


「来なくていいよ。」


周は振り返った。


「どうして?」


「自分でできるから。」


周は黙った。


劉が横から言った。


「そういう年齢になったんだよ。」


周は前を向いた。


「分かった。」


それ以上は言わなかった。


家に戻ってから、家の中が急に静かになった。


子どもの部屋には、まだ机がある。


教科書も少し残っている。


壁には昔貼った紙が一枚残っていた。


周がそれを見つけた。


小学生の頃の計算問題だった。


丸がついている。


その横に、周が書いた字があった。


「よくできた。」


周はしばらく立っていた。


劉が後ろから来た。


「まだ残ってたんだ。」


「うん。」


「捨てる?」


周は首を横に振った。


「そのままでいい。」


二人は部屋を出た。


それから、子どもとの連絡は電話が中心になった。


最初の頃は毎日だった。


「飯食ったか?」


「食べた。」


「学校は?」


「普通。」


「金は足りてるか?」


「大丈夫。」


「ちゃんと寝てるか?」


「寝てる。」


毎回、似たような会話だった。


周は安心した。


けれど、しばらくすると子どもからの電話が減った。


二日に一回。


三日に一回。


一週間に一回。


周から電話をかけることが増えた。


「最近、どうして電話してこない?」


「忙しい。」


「何が忙しい?」


「授業とか、友達とか。」


周は少し不満そうに言った。


「電話くらいできるだろ。」


「できるけど……。」


「何だ?」


「自分の生活があるから。」


周は黙った。


その言葉を聞くと、少し寂しくなった。


けれど、子どもが悪いとは思えなかった。


大学へ行った。


新しい友達ができた。


自分の生活が始まった。


それは当然のことだった。


それでも、周には簡単には慣れなかった。


子どもの生活を知らない。


誰といるのかも分からない。


何を考えているのかも、以前ほど分からない。


だから、余計に聞きたくなった。


「今、何してる?」


「学校。」


「誰と?」


「友達。」


「どこで?」


「学校。」


「何の授業?」


子どもが少し黙った。


「お父さん。」


「何だ?」


「そんなに聞かなくてもいいよ。」


周の声が止まった。


「……分かった。」


電話が切れた。


周は携帯を机の上に置いた。


劉が聞いた。


「どうしたの?」


「何でもない。」


「また何か聞いた?」


周は答えなかった。


劉は分かっていた。


「あなた、あの子がいなくなってから、前より心配してるね。」


「心配するのが悪いのか?」


「悪くないよ。」


「じゃあ、何だ。」


「心配することと、全部知ることは違うでしょう。」


周は黙った。


その言葉は、以前にも聞いたような気がした。


自分で決めたい。


あのとき、子どもが言った言葉だった。


周は湯飲みを持ったまま、何も言わなかった。


数か月後、子どもが電話をかけてきた。


「お父さん。」


「何だ?」


「今度、帰ろうと思う。」


周の顔が明るくなった。


「いつ?」


「来週。」


「何時に着く?」


「夕方。」


「じゃあ、駅まで迎えに行く。」


「いいよ。自分で帰れる。」


「いいから。」


子どもは少し笑った。


「分かった。」


電話を切ったあと、周はすぐに劉へ伝えた。


「来週、帰ってくる。」


劉も嬉しそうだった。


「何食べさせようか。」


「肉でいいだろ。」


「好きなもの聞いてみれば?」


「子どもの好きなものくらい分かる。」


劉は笑った。


「本当に?」


周も笑った。


「分かる。」


けれど、次の瞬間、周は少し考えた。


子どもが今何を好きなのか。


大学へ行ってから何を食べているのか。


どんな友達がいるのか。


どんな生活をしているのか。


それを、自分はあまり知らない。


そのことに、周は初めて気づいた。


子どもはもう、家にいる時間より、家の外で過ごす時間のほうが長くなっていた。


それでも、帰ってくれば子どもである。


周にとっては、それでよかった。


ただ、その「子ども」という呼び方の中には、まだ昔の小さな姿が残っていた。


自分で靴を履けなかった頃。


熱を出して病院へ連れて行った頃。


数学の問題を隣で解いていた頃。


「お父さん」と呼びながら後ろをついてきた頃。


周はまだ、その頃の子どもを心の中に置いたままだった。


一方で、家を出た子どもは、少しずつ別の生活を作っていた。


自分でお金を使う。


自分で友達を選ぶ。


自分で授業を選ぶ。


自分で帰る時間を決める。


そして、少しずつ、自分の人生について考えるようになっていた。


二人の距離は、離れていた。


けれど、それは家族が終わるということではなかった。


むしろ、同じ家に住んでいたときには見えなかった違いが、少しずつ見えるようになっていった。


周は、子どもを心配していた。


子どもは、周を大切に思っていた。


ただ、二人が思う「大切にする」ということは、もう同じものではなくなり始めていた。

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