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09_7話 南へ

 朝から、水路の泥をさらっていた。


「リョウ、そっちの枝をどけてくれ」

「はいよ」


 柏木遼は水路に引っかかった枝を引き上げ、岸へ放り投げた。


「こんなの、放っておいたら駄目なんですか?」

「放っときゃ水が詰まるだろうが。田んぼに水が来なくなったら、お前が運んでくれるのか?」

「遠慮しときます」


 弥平は笑いながら、鍬で水路の底に溜まった泥を掻き出した。

 村に来たばかりの頃は、畑仕事を三十分続けるだけで息が切れていた。今では半日くらいなら問題なく働ける。長い休眠で衰えていた身体も、ようやく元に戻ってきたらしい。

 もっとも、弥平たちと同じだけの仕事ができるわけではない。


「そろそろ休むか」

「助かります。腰が限界です」

「まだまだだな」

「弥平さんたちがおかしいんですよ」


 弥平は鼻を鳴らして笑った。遼は水路脇の石に腰を下ろし、竹筒から水を飲んだ。遠くには山並みが広がっている。あの山の向こうには、まだ知らない町や村がある。その先に、かつて自分が暮らした神戸があるはずだった。


「弥平さん」

「何だ?」

「そろそろ、村を出ようと思うんです」


 弥平は泥を掻き出す手を止めた。


「南へ行くのか」

「はい」

「そうか」


 驚いた様子はなかった。神戸を目指していることは、以前から話していたからだ。


「身体はもう大丈夫なのか?」

「ええ。だいぶ戻りました」

「山道を歩くのは、畑仕事とは違うぞ」

「分かってます」

「本当かねえ」


 弥平は疑わしそうに遼を見た。


「まあ、いつまでも引き止めるわけにもいかんか。源蔵様には話したのか?」

「いえ、これからです」

「なら、今日の仕事が終わったら一緒に行ってやる」

「ありがとうございます」


 遼が頭を下げると、弥平は再び鍬を動かし始めた。


「しかし、お前がいなくなると面倒だな」

「何がです?」

「水車だよ。また変な音がしたら誰に聞きゃいい」

「弥平さんなら大丈夫でしょう。もう調整の仕方も分かってるんですから」

「そういう問題じゃねえんだよ。お前は俺たちと違うところを見るからな」

「それ、褒めてます?」

「褒めてるつもりだぞ」


 二人で笑い、また仕事に戻った。


     ◇


 夕方、遼は弥平とともに源蔵の家を訪ねた。源蔵はいつもの部屋で二人を迎え、旅立ちの話を静かに聞いていた。


「そうか。もう行くのか」

「はい。長い間、お世話になりました」

「こちらも助かった。村の者からも、お前さんがよく働いてくれたと聞いている」


 源蔵は穏やかに笑った。


「それで、道は分かっているのか?」

「大まかには。南の街道を通って、まず大きな町へ出ようと思っています」

「宗助から聞いたのか」

「はい。ただ、その先はまだ分からなくて」

「なら、町で道を聞くといい。南から来る商人もいるはずだ」


 源蔵は棚から一枚の紙を取り出した。広げられた紙には、山や川、道らしき線が描かれていた。


「これは?」

「この辺りの道を書いたものだ。古いが、役には立つだろう」


 地図だった。ただし、見慣れた地図とは随分違う。距離も方角も正確とは言い難く、山は絵で描かれ、道の途中には小さな集落の名前が書かれている。

 それでも、何もないよりずっといい。


「借りてもいいんですか?」

「ああ。持っていきなさい」

「ありがとうございます」


 遼は慎重に紙を畳んだ。


「山道は雨の後に崩れることもある。日が落ちる前に人のいる場所へ着くようにしなさい。それと、知らん者に簡単についていかんことだ」

「子供じゃないんですから」

「そうは言っても、お前さんはこの辺りのことをほとんど知らんだろう」


 横で弥平が笑った。


「違いねえ」

「そこまで言います?」


 遼は苦笑したが、言い返せなかった。この世界の旅について、自分がほとんど何も知らないのは事実だ。宿の取り方も、土地ごとの決まりも、危険な場所も分からない。


「ところで、旅の金はあるのか?」


 源蔵に尋ねられ、遼は少し困った顔をした。


「正直、あまりありません」

「そうだろうな」


 源蔵は小さな布袋を取り出し、卓の上に置いた。


「これを持っていきなさい」


 中には何枚かの銅貨と、小さな銀貨が入っていた。


「いや、さすがにそこまでは」

「施しではない。これまで働いた分だ。村の者と相談して決めた額だから、遠慮はいらん」


 遼は布袋を手に取った。これでどれほどの物が買えるのか、まだよく分からない。だが、この世界で初めて自分の仕事によって得た金だった。


「ありがとうございます。大切に使います」

「ああ。足りなくなれば、どこかで働けばいい。お前さんなら、できることもあるだろう」

「そうですね」


 遼は頷いた。この村に来たばかりの頃は、何をすればいいのかさえ分からなかった。だが今は違う。壊れたものを調べ、直すことならできる。それがどこまで通用するかは分からないが、何も持たずに旅立つわけではなかった。


     ◇


 旅立ちは三日後に決まった。それまでの間、遼は仕事を続けながら荷物を整理した。


「重いなあ」


 工具袋を持ち上げ、ため息をつく。レンチ、ドライバー、プライヤー、六角レンチ。どれも使い慣れた道具だが、まとめればかなりの重さになる。山道を歩くなら、荷物はできるだけ軽くしたい。しかし、工具は簡単に買い直せない。汎用性の高いものを選び、重いものや用途の限られるものは小屋に置いていくことにした。


「兄ちゃん、何してんの?」


 入口から冬馬が顔を出した。


「荷造りだよ。もうすぐ旅に出るからな」

「どこ行くんだ?」

「南の方。昔住んでた町を見に行くんだよ」

「ふうん」


 冬馬は床に並べた工具を眺めた。


「これ、全部持っていくの?」

「いや、少し置いていく」

「じゃあ、これちょうだい」


 冬馬が小さな六角レンチを手に取った。


「駄目」

「なんで!」

「お前、何に使うんだよ」

「何かに使う!」

「絶対使わないだろ」

「兄ちゃんだって使ってないじゃん!」

「それはそうなんだけどさ」


 遼は苦笑し、レンチを受け取った。


「それより、しばらく会えなくなるぞ」

「いつ帰ってくるんだ?」

「さあ。まだ分からないな」


 冬馬は黙り込んだ。


「兄ちゃん、ここにいればいいじゃん」

「そういうわけにもいかないんだよ」

「弥平のおっちゃんも、兄ちゃんがいたら助かるって言ってたぞ」

「それは嬉しいけどな」

「じゃあ、いればいいだろ」


 遼は工具を袋にしまい、少年の方を向いた。


「俺には、どうしても確かめたいことがあるんだ」

「昔の町?」

「ああ」

「もうないかもしれないぞ」

「そうだな。でも、行ってみないと分からないだろ」


 冬馬はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。


「じゃあ、俺も行く!」

「駄目」

「なんで!」

「危ないから」

「俺、山道詳しいぞ!」

「村の周りだけだろ」

「走るのも速い!」

「よく転ぶくせに」

「最近は転んでない!」

「昨日、畦道で転んでただろ」

「あれは違う!」

「何が違うんだよ」


 冬馬は頬を膨らませた。

 遼は笑いながら少年の頭を軽く叩いた。


「また帰ってくるよ」

「本当か?」

「できればな」

「できればって何だよ!」

「約束できないことは、約束しない方がいいだろ」


 冬馬は不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。


「じゃあ、帰ってきたらまた何か直してよ」

「何を?」

「水車!」

「壊れたら困るだろ」

「じゃあ、壊れたら直して!」

「それなら考えとくよ」


 冬馬はようやく笑った。


     ◇


 翌日、遼は源吉の鍛冶場を訪ねた。


「旅に出るんだってな」

「はい。お世話になりました」

「何だ、もう行っちまうのか。まだろくに金槌も振れねえくせに」

「その節はどうも」


 源吉は笑いながら、作業台の上に置かれた小さな刃物を手に取った。


「これ、お前のだろ」


 地下施設から持ち出した作業用のナイフだった。長い休眠の間に表面が傷んでいたため、手入れを頼んでいた。


「刃を整えて、錆も落としておいた。まだ使えるぞ」

「ありがとうございます」

「変わった鉄だな。硬えし、なかなか減らねえ」

「そういう材料なんですよ」

「分かってるんなら、今度は作り方も教えてくれ」

「いや、それはちょっと」


 遼は困ったように笑った。材質の見当はつくが、同じものをここで作れるかと聞かれれば難しい。原料も設備も違いすぎる。


「まあ、いいさ。大事に使えよ」

「はい。いろいろ勉強になりました」

「おう。また来たら手伝わせてやる」

「今度はもう少し上手く金槌を振れるようにしときます」

「無理だろうな」

「即答ですか」


 源吉は豪快に笑った。

 鍛冶場を出た遼は、弥平から旅の食料を受け取った。乾かした麦の団子、干した野菜、少量の塩。それに水を入れる竹筒。


「皆から少しずつ集めたんだ。持っていけ」

「ありがとうございます。でも、こんなにいいんですか?」

「心配するな。それより、知らん森に勝手に入るなよ。近道しようなんて考えるな」

「分かってますって」

「お前、変なもの見つけるとすぐ近寄るからな」

「そんなことないですよ」

「水車の音が気になるって、勝手に見に行ったのは誰だ?」

「いや、あれは」

「古い鉄があるって聞いて、やたら目を輝かせてたのも誰だ?」

「それは気になるでしょう」

「だから心配なんだよ」


 遼は言い返せなかった。弥平は呆れたように首を振り、それから笑った。


「まあ、気をつけて行ってこい」

「はい。ありがとうございました」


     ◇


 出発の日は、朝からよく晴れていた。まだ日が高くならないうちに、遼は荷物を背負って小屋を出た。最初に案内されたときには見知らぬ場所だった小屋も、今ではすっかり馴染んでいる。寝床を整え、炉の火が消えていることを確かめ、扉を閉めた。


「おう、準備できたか」


 道の向こうから弥平が歩いてきた。


「はい。何とか」

「荷物、多くねえか?」

「これでもかなり減らしたんですよ」

「そうかい」


 弥平は工具袋を見て呆れたように笑った。

 村の南端まで歩くと、そこには源蔵と源吉、それに何人かの村人が集まっていた。冬馬の姿もある。


「リョウ、忘れ物はないか?」


 源蔵が尋ねた。


「たぶん大丈夫です」

「たぶん、か。もう一度確かめた方がいいんじゃないか?」

「いや、確認はしたんですけど」


 遼は苦笑しながら荷物を叩いた。源蔵は小さく笑い、南へ続く道を指差した。


「この道を進めば、やがて街道に出る。そこからは話したとおりだ」

「はい」

「身体に気をつけてな」

「ありがとうございます」


 遼は深く頭を下げた。


「皆さん、本当にお世話になりました」

「達者でな」

「また寄りなさいよ」

「今度来るときゃ、何か面白いものでも持ってこい」


 村人たちが口々に声をかけた。最後に冬馬の前へしゃがみ込む。


「じゃあな、冬馬」

「うん」

「弥平さんの言うこと、ちゃんと聞けよ」

「分かってる!」


 冬馬は少し迷ったあと、懐から小さなものを取り出した。


「これ、やる」


 差し出されたのは、紐を通した木の札だった。表面には、何かの絵が彫られている。


「俺が作ったんだ」

「へえ。何の絵?」

「水車!」


 遼は札を見直した。丸い輪の周りから何本もの線が伸びている。言われてみれば、水車に見えなくもない。


「なるほど。上手いじゃないか」

「だろ!」


 冬馬は得意げに胸を張った。


「兄ちゃん、あれ直しただろ。だから水車!」

「ありがとう。大事にするよ」


 遼は札を受け取り、工具袋の紐に結びつけた。


「絶対また来いよ!」

「ああ。来られるように頑張るよ」

「約束だからな!」


 遼は笑って立ち上がった。弥平が大きな手で肩を叩く。


「道中、気をつけろよ」

「はい。弥平さんも元気で」

「おう。戻ってきたら、また仕事を手伝ってもらうからな」

「帰ってきて早々、仕事ですか」

「当たり前だろ」


 二人は笑った。遼はもう一度、村人たちに頭を下げた。


「それじゃ、行ってきます」


 そう言って歩き出した。村を出る道は、緩やかな坂になっていた。しばらく進んだところで振り返ると、村人たちがまだ手を振っていた。冬馬だけは両手を大きく振っている。


「兄ちゃん! 気をつけろよー!」

「お前もなー!」


 遼は手を振り返し、再び南へ向き直った。道の両側には田畑が広がり、その先には山が連なっている。風が吹くと、工具袋につけた木の札が小さく揺れた。

 歩きながら、遼は一度だけ村を振り返った。家々の屋根が朝日に照らされ、遠くには水車が見えている。初めてこの村に来たときは、何も分からず、ただ不安だった。それが今では、働く場所も、話のできる相手もできた。ここで暮らしていく道もあっただろう。けれど、まだ確かめなければならないことがある。

 神戸。両親と暮らした家があり、慣れ親しんだ道があり、自分が生まれ育った町。

 そこが今どうなっているのか、遼には分からない。何も残っていないかもしれない。それでも、自分の目で確かめたかった。


「さて、と」


 遼は背負った荷物の位置を直した。


「まずは、次の町までだな」


 地図を取り出し、道を確かめる。南へ向かう街道は、まだずっと先にある。遼は地図を畳んで歩き出した。

 

 背後から聞こえていた水車の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

お読みいただきありがとうございます。

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