07_5話 壊れた水車
朝になっても、水車の音は続いていた。
ゴトン、ゴトン。
柏木遼は薄い毛布の中で目を覚ました。見慣れない木の天井を眺め、昨夜泊めてもらった村外れの小屋だと思い出す。
地下施設から出て、見知らぬ村にたどり着いた。昨日聞かされた話では、日本という国は遠い昔に消えてしまったらしい。
昨夜はその事実を受け止めきれず、声を押し殺して泣いた。眠ったはずなのに、目の奥が重い。
「夢じゃないんだよな」
身体を起こしたところで、また鈍い音が聞こえた。
ゴトン、ゴトン。
「一回転するたびに鳴ってるのか」
遼は耳を澄ませた。音の間隔はほぼ一定だ。軸がずれて何かに当たっているのか、それとも歯車に問題があるのか。気づけば、頭の中で故障の原因を探していた。
今がいつなのか。家族はどうなったのか。これからどう生きればいいのか。考えなければならないことはいくらでもある。
それでも、機械のことを考えている方が楽だった。
地下施設で目覚めて以来、すべてが手探りだった。正しい判断をしているのかも分からず、何をするにも不安がつきまとう。けれど機械なら、少なくとも調べる手順は分かる。
「まあ、見るだけ見てみるか」
現実逃避だとは分かっている。だが、このまま一人で考え込んでいれば、また昨夜のようになりそうだった。
遼は作業服を整え、工具の入った袋を肩にかけて小屋を出た。
村ではすでに一日の仕事が始まっていた。朝日を受けた水田の間を農具を担いだ男たちが歩き、家々から炊事の煙が上がっている。道端では少年が牛を引いていた。
村人に道を尋ね、水路に沿って進むと、大きな水車が現れた。直径は三メートルほどだろうか。木製の輪がゆっくり回り、隣の小屋へ動力を伝えている。
「思ったより大きいな」
軒下には麦の入った袋が積まれていた。水車が回るたび、太い軸の辺りから例の音が響いている。遼は少し離れたところに立ち、回転する輪の動きを目で追った。そのとき、小屋から日に焼けた大柄な男が出てきた。
「おい、そこで何してる」
「すみません。昨日から変な音がしてたので、気になって」
男は遼の姿を見て眉をひそめた。
「昨日、山から来た男か」
「はい。柏木遼といいます」
「俺は弥平だ。この水車を見てる。お前、水車のことが分かるのか?」
「専門ではないですけど、機械の整備はしてました」
「キカイ?」
「ああ、こういう動く設備のことです」
弥平は水車を振り返った。
「少し前から調子が悪くてな。直したつもりでも、また音が出る。このままじゃ臼を回すのも怖い」
「臼ですか?」
「中の石臼だ。麦を粉にする。村の家が順番に麦を持ってくるんだよ」
小屋の中を覗かせてもらうと、大きな石臼と、それを動かすための木製の仕組みがあった。挽いた粉を受ける桶や、粉をふるう道具も置かれている。
「粉にしたら、各家で使うんですか?」
「ああ。汁に入れる団子にしたり、麺にしたりな。水車が止まると手で挽くしかない。今は皆に待ってもらってる」
遼は入口の麦袋を見た。水車一つが止まるだけで、何軒もの食事の支度に影響が出るらしい。
「それは困りますね。近くで見てもいいですか?」
「構わんが、壊すなよ」
「もちろんです」
そう答えたものの、遼にも自信はなかった。電動ポンプや車両の整備なら経験がある。しかし木製の水車を修理したことはない。
まずは回転を観察する。水を受けた輪が一周するたび、片側がわずかに横へ振れていた。その瞬間に、支柱の付近から鈍い音がする。
「一度、止めてもらえますか?」
弥平が水路の堰を操作すると、輪は次第に遅くなり、やがて止まった。
遼は不用意に軸の下へ入らないよう注意しながら、木組みや受け木を調べた。太い軸を支える部分には、何度も補修した跡がある。
「ずいぶん手入れされてますね」
「使わん日がないからな。傷んだところは、その都度直してる」
「ここも交換したんですか?」
遼は片側の受け木を指差した。
「ああ。だが、替えてもまた音がする」
遼はしゃがみ込み、軸と支柱の隙間を見比べた。受け木は摩耗して溝が深くなり、固定する木楔も少し緩んでいる。傷んだ部品を取り替えても不具合が続くなら、別のところに原因があるのかもしれない。基地でも軸受けを何度交換しても振動が収まらず、結局は据付けのずれが原因だった設備があった。
「軸の位置が少しずれてませんか?」
「どういうことだ?」
「こっち側だけ下がってます。輪が横に振れて、支柱に当たってるように見えるんです」
弥平は遼の示した場所を確かめた。
「言われてみりゃ、隙間が違うな」
「受け木を直して、軸の位置を合わせたら改善すると思います。ただ、断言はできません」
「まず試してみるか」
弥平は近くで働いていた男たちを呼んだ。遼も手伝おうとしたが、太い木材を持っただけで腕が震えた。
「おいおい、無理するな」
「すみません。力仕事はあまり得意じゃなくて」
「見りゃ分かる」
弥平が笑った。
数人で丈夫な木材を梃子にし、軸を少しだけ浮かせて支える。遼は動かないよう固定されていることを確かめ、古い受け木を外す作業を手伝った。
新しい受け木の加工は弥平が引き受けた。木目を読み、刃物を動かし、軸に合わせて形を整えていく。寸法を測る道具は簡単なものだったが、その手つきに迷いはなかった。
「すごいですね。そんなにぴったり削れるんだ」
「何十年も木を削ってりゃ覚えるさ」
遼は思わず見入った。自分の知っている整備なら、規格に合う部品を探すところだ。ここでは必要なものを自分たちの手で作っている。
加工した受け木を取り付け、軸の位置を少しずつ調整した。木楔を打ち直すたび、輪と支柱の隙間を見比べる。作業は思った以上に時間がかかった。途中で腰を伸ばしただけで息が切れ、弥平に休めと言われる。力仕事は男たちに任せ、遼は位置の確認に集中した。
「右をもう少し上げられますか」
「このくらいか?」
「はい。ゆっくり回してみましょう」
男たちが輪を手で回した。
一回転。二回転。
例の接触音はしなかった。
「よし。今のところ大丈夫そうです」
「水を流すぞ」
弥平が堰を開いた。流れ込む水に押され、水車がゆっくりと動き始める。
遼は息を詰めて見守った。
ギシギシという木の軋みは聞こえる。だが、昨夜から気になっていた鈍い音は消えていた。回転が速くなっても、輪が大きく横へ振れることはない。
弥平は小屋の中へ入り、石臼へ動力をつないだ。低い音を立てて臼が回り始める。
「おお、動いたぞ!」
男の一人が声を上げた。
弥平は軸の様子を確かめ、満足そうに頷いた。
「前より静かに回ってやがる」
「でも、しばらく様子は見てください。新しい受け木が馴染んだら、また位置を確認した方がいいです」
「ああ、それは任せろ」
遼はようやく肩の力を抜いた。
実際に木材を加工し、重い軸を動かしたのは村の男たちだ。自分がしたのは原因を調べ、調整する場所を提案したくらいだった。
「助かったぞ、リョウ」
弥平が大きな手で遼の肩を叩いた。
「痛っ!」
休眠前に傷めた右肩だった。
「おっと、怪我してたのか。先に言えよ」
「いや、俺も忘れてました」
弥平が笑い、遼もつられて笑った。
いつの間にか、水車の周りには何人もの村人が集まっていた。
「直ったのかい?」
「ああ、もう麦を挽けるぞ」
「よかった。うちも粉がなくなりそうだったんだ」
「これでまた手で臼を回さずに済むね」
皆が口々に喜んでいた。
遼は水車を見上げた。自分にとっては、異音が気になっただけの機械だった。しかし村の人々にとっては、毎日の食事を支える大切な設備なのだ。
「兄ちゃん!」
聞き覚えのある声に振り向くと、昨日、山で遼を鬼だと叫んだ子供が駆け寄ってきた。
十歳くらいだろうか。短く切った黒髪に痩せた身体。膝には新旧の擦り傷があり、走ってきた勢いのまま遼の前で急停止した。
「兄ちゃんが直したの?」
「みんなで直したんだよ。俺は悪いところを見つけただけ」
「でも、すげえ!」
少年は目を輝かせ、水車と遼を交互に見上げた。
「冬馬! また走り回って。転ぶんじゃないよ!」
近くの女性が声をかけると、少年は振り返って返事をした。
「分かってる!」
遼は笑った。
「冬馬っていうのか。昨日は鬼って呼んだくせに」
「だって、変な格好だったし!」
悪びれない返事に、周囲の大人たちが笑い出した。
昨日は自分を警戒していた人々が、今日は笑いかけてくれる。遼にはそれが少し不思議だった。
昼前、遼は村のまとめ役である老人の家へ呼ばれた。昨日と同じ部屋だったが、今日は入口に見張りの男がいない。卓には米と麦を混ぜた飯、野菜の煮物が並んでいた。
「食べなさい。水車を直してくれた礼だ」
「ありがとうございます。でも、俺一人で直したわけじゃありません」
老人は頷いた。
「弥平もそう言っていた。お前さんが違うところに気づいてくれたとな」
遼は礼を言って箸を取った。温かい食事が、空腹だった身体に染み渡る。
食事を運んできた女性も、昨日より親しげに話しかけてくれた。山から突然現れた余所者というだけではなく、水車を直す手伝いをした男として見られ始めたのかもしれない。
食事を終えた頃、老人が尋ねた。
「お前さん、これからどうするつもりだ?」
遼の箸が止まった。
「南へ行こうと思っています」
「南か。何か当てがあるのか?」
「神戸という町に、俺の家があるんです。いや、あったと言った方がいいのかもしれませんけど」
口にすると、胸の奥が痛んだ。
徴兵される前、遼は神戸で両親と暮らしていた。毎日歩いた道も、家の玄関も、今でも鮮明に思い出せる。
そして、地下施設が襲われた日の警報も。
『神戸地区へ接近中の飛翔体一』
あの声を最後に、外部との通信は途絶えた。両親に連絡することすらできなかった。
攻撃を受けたのか、無事だったのか。何も分からないまま眠りにつき、目覚めた時には日本そのものが昔話になっていた。
今さら家族が生きているとは、考えにくい。
それでも、何も確かめずに諦めることはできなかった。
「そこがどうなったのか、自分の目で見たいんです」
老人はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「そうか。だが、その身体で遠くまで歩けるのか?」
「正直、自信はありません」
山を下りるだけで息が切れた。道も知らず、旅の食料も十分ではない。今すぐ出発するのは無謀だろう。
老人は遼の顔を見て言った。
「なら、しばらく村におらんか」
「え?」
「何もせずに食わせてやれるほど豊かな村ではない。だが、今日のように働いてくれるなら、寝床と飯くらいは用意できる」
遼は驚いて老人を見た。
昨日までは、いつ追い出されるか分からない余所者だった。それが今は、ここにいてもいいと言われている。
「本当に、いいんですか?」
「ああ。弥平もお前さんを気に入ったようだ」
老人は源蔵と名乗り、滞在中は村の決まりを守ること、仕事は弥平たちと相談することを伝えた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
遼は深く頭を下げた。
正体をどう説明するかという問題は残っている。自分の時代の知識を不用意に話していいのかも分からない。それでも、今すぐ旅立つより、ここで身体を回復させながら暮らしを知る方がよさそうだった。
午後、遼が水車小屋へ戻ると、弥平は新しい受け木の様子を確認していた。
「おう、リョウ。しばらく村にいるそうだな」
「はい。お世話になります」
「なら、また何かあったら頼む。お前は俺とは違うところに目が行くらしい」
「俺も木のことは全然分からないので、教えてください」
「そりゃお互い様だ」
弥平はそう言って、当然のように笑った。
遼は水車を見上げた。
村の男たちは、自分にできない木工を当たり前のようにこなしていた。力仕事も、水の管理も、ここで暮らしてきた彼らの方がずっと詳しい。
ただ、知っていることが違う。その違いが、今日は役に立った。
夕方、遼は村外れの小屋へ戻る途中で足を止めた。
水田の向こうに家々が並び、夕食の煙が上がっている。遠くでは、直したばかりの水車が静かに回っていた。
遼は泥と木屑の残る手を見下ろした。昨夜から何も解決していない。家族のことも、故郷のことも、考えれば今でも苦しくなる。
けれど今日は、人の役に立てた。現実から逃げるように始めた修理だったが、弥平も村人たちも喜んでくれた。それが嬉しかった。
「まだ、できることはあるんだな」
遼は小さく呟いた。
神戸へ行く。その気持ちは変わらない。
ただ、それまではこの村で働き、身体を戻し、この世界の暮らしを覚えよう。そう決めると、明日やるべきことが少しだけ見えてきた。
水車はもう、嫌な音を立てていなかった。
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