06_4話 人々
山で保護された遼は、村のまとめ役だという老人の家へ連れてこられていた。
衰弱した人間を外に立たせたまま話を聞くわけにもいかないらしい。警戒はされているものの、少なくとも今すぐ追い出されることはなさそうだった。家の中に電灯はない。室内を照らしているのは、窓から差し込む夕方の光と、壁際に置かれた小さな油灯だけだった。
遼は木の椅子に腰掛けながら、部屋の中を見回した。土壁には太い梁が剥き出しになり、木の棚には陶器の壺や籠が並んでいる。壁際には使い込まれた農具が掛けられていた。時代劇の撮影場所だと言われれば、そう見えなくもない。だが窓の外では牛が歩き、農具を担いだ人々が田から戻ってきていた。
ここでは、本当に人が暮らしている。
「どうぞ」
若い女が、湯気の立つ木の器を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
遼が受け取ると、女は少し不思議そうに首を傾げた。言葉は通じる。ただし、自分の知っている日本語とまったく同じではない。発音が少し違い、ときどき聞いたことのない言葉が混じる。それでも、ゆっくり話せば意思疎通はできた。
器の中に入っていたのは、薄い粥だった。一口すすった遼は、思わず目を細める。
「米だ」
「コメ?」
「あ、いや。なんでもないです」
ほとんど味付けはされていない。それでも、地下施設で保存食ばかり口にしていた身体には驚くほどうまかった。
部屋には数人の村人が残っている。正面には白髪の老人が座り、入口の近くには体格のいい男が二人立っていた。そのうち一人の腰には、短い刀のようなものが下がっている。敵意はない。だが、信用されてもいない。当然だろう。山の中から突然、見たこともない服を着た男が現れたのだから。
「少し、聞いてもいいですか」
遼が口を開くと、老人が頷いた。
「こちらも、お前さんには聞きたいことが山ほどある」
「ですよね」
乾いた笑いが出た。
「ここは、どこですか」
「どこ、と言われてもな」
「地名です。ここって、丹波ですか?」
老人の表情がわずかに変わった。
「ああ。丹波だ」
「丹波…」
その名前を聞いて、胸の奥が少し軽くなった。
眠っていた基地は丹波篠山周辺の山中にあった。少なくとも、まったく別の土地へ来たわけではない。
「じゃあ、兵庫県ですよね?」
「ヒョウゴ?」
老人が聞き返した。
「兵庫県です。ここは兵庫県の……」
「ケンというのは何だ?」
「え?」
冗談を言っているようには見えなかった。行政区分の名前が変わっただけかもしれない。そう思い直し、遼は別の聞き方をした。
「じゃあ、日本は分かりますよね」
返事がない。
「日本です。国の名前です」
「ニホン……」
老人はその言葉をゆっくり繰り返し、しばらく考えてから頷いた。
「ああ。聞いたことはある」
遼はほっと息を吐きかけた。
「昔話に出てくる名だ」
呼吸が止まった。
「昔話?」
「昔、この辺りを含む広い土地を治めていた国の名だった、と聞いたことがある」
「待ってください」
思わず声が大きくなった。入口にいた男たちがわずかに身構える。
「あ、すみません」
遼は慌てて声を落とした。
「日本が、昔の国なんですか?」
「そう聞いている」
「じゃあ今、この辺りを治めているのは?」
「領主様だ」
「領主?」
「ああ」
遼は窓の外へ目を向けた。夕暮れの水田の間を、牛に引かれた荷車が進んでいる。木造の家々からは炊事の煙が上がっていた。
室内を照らすのは油灯で、男の腰には刀がある。そして、この土地を治めているのは領主だという。戦争で行政機構が一時的に崩れた可能性なら考えていた。だが、目の前にあるものは一時的な混乱には見えない。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「昔、大きな戦争がありましたか」
「大戦のことか?」
「大戦?」
「昔、世界が焼けた戦だ」
遼の喉が鳴る。
「どんな戦争だったんですか」
「わしらも詳しくは知らん」
老人はゆっくりと言った。
「昔の人間が、大きな力を使って争ったそうだ。空を飛ぶ鉄の鳥があり、遠く離れた者同士で声を交わす術があり、夜の町を昼のように照らす光があったとも聞く」
遼は黙って聞いていた。
「最後には、空から太陽を落としたとも言われている」
背中に冷たいものが走った。
「太陽?」
「町を一つ焼き尽くすほどの火だったそうだ」
核兵器。頭の中に、その言葉が浮かんだ。
「その戦争は、何年前ですか」
老人は首を横に振った。
「分からんな」
「百年くらいですか」
「さあ」
「二百年?」
老人の表情は変わらない。遼は唇を湿らせた。
「三百年?」
室内が静まり返った。
「学のある者なら知っているかもしれん。だが、わしらには分からん」
老人は少し考え、付け加えた。
「少なくとも、わしの爺さんが生まれるより、ずっと昔だ」
遼は返事ができなかった。言葉の意味は分かる。だが、感情が追いつかない。
「嘘だろ?」
自分にしか聞こえないほど小さな声だった。
「外を、少し歩いてもいいですか」
老人は遼の顔を見つめ、やがて頷いた。
「村の中なら構わん」
「ありがとうございます」
遼は逃げるように家を出た。
夕方の村では、一日の仕事を終えた人々が、それぞれの生活へ戻ろうとしていた。男たちは農具についた泥を洗い、女は牛に水を飲ませている。子供たちは家の前を走り回り、あちこちの竈から夕食の煙が上がっていた。
誰も、文明が滅びたことを嘆いていない。当たり前だ。この人たちは、その時代を知らない。
「復興途中じゃないんだ」
遼は立ち止まった。自分は、どこかでずっと思っていた。戦争で文明が壊れ、まだ十分に復旧していないだけなのだと。どこかへ行けば都市があり、電気が灯り、車が走っているかもしれない。
けれど、この村はそうではない。崩壊した世界のあとに、人々が何世代もかけて作り上げた社会だった。田を作り、水路を引き、家を建て、子供を育てる。そうした暮らしを何世代も積み重ねて、今の村がある。
昔の世界を失ったことに苦しむ者はいない。昔の世界を知っている者が、もういないのだから。
日が落ちる頃、老人から今夜の寝場所を告げられた。
「山へ戻すわけにもいかんからな。今夜だけなら使っていい」
案内されたのは、村外れに建つ小さな小屋だった。旅人や行商人を泊めるための場所らしい。村の中の家に泊めるほど信用はできない。だが、衰弱した人間を暗くなった山へ追い返すつもりもない。おそらく、そんなところなのだろう。遼にとっては十分だった。
小屋の中には藁を詰めた寝床と毛布、水の入った陶器の壺、それに小さな油灯が用意されていた。礼を言って扉を閉める。一人になった途端、静けさが重く感じられた。聞こえてくるのは虫の声くらいだった。車の走行音も、飛行機の音もない。空調も家電も、携帯端末の通知音も聞こえない。遼は寝床に腰を下ろした。
「まだ、決まったわけじゃない」
村の老人が知らないだけかもしれない。どこかには日本が残っているかもしれない。都市や軍、通信施設だって、すべてなくなったと決まったわけではない。
「数百年なんて、そんなわけないだろ」
ECLSはそんな装置ではない。想定されているのは数週間、長くても数年だ。何百年も人間を生かし続けるようには作られていない。
「まだ、ちゃんと確認してない」
基地の記録は壊れていた。正確な日付も分からない。だから、まだ結論を出す必要はない。そう思った時、ふいに母親の顔が浮かんだ。自宅の玄関や近所の店、通勤途中に見ていた道路まで、どうでもいいはずの日常の風景が次々と蘇ってくる。
「母さん」
声に出した瞬間、喉の奥が詰まった。もし本当に、何百年も経っているのなら。両親も、友人も、自分が知っている誰もが、とっくにいなくなっている。
「やめろ」
遼は両手で顔を覆った。
「まだ分からないだろ」
神戸や大阪へ行けば、何か分かるかもしれない。自分の知っている場所が残っているかもしれない。
「帰れるかもしれないだろ?」
口にした途端、頬を涙が伝った。
「くそ」
英雄でもない。特別な人間でもない。ただ機械を触るのが好きで、徴兵されて、後方の整備班へ回されただけだ。壊れたポンプや車を直しながら、戦争が終わるのを待っていただけだった。
「なんで俺なんだよ!」
野口班長の顔が浮かぶ。
『救援が来たら起こしてやる』
「来てないじゃないですか」
声が震えた。
「約束しただろ!」
返事はない。遼は寝床に座ったまま、しばらく声を押し殺して泣いた。
どれほど時間が経ったのか分からない。涙も出なくなった頃には、身体の奥まで疲れ切ったような感覚だけが残っていた。それでも眠れなかった。遼は身体を起こした。
「明日だ」
小さく呟く。
「明日、考えよう」
問題が多すぎる時は、一度に全部を解決しない。整備でもそうだった。故障箇所を一つずつ確認し、優先順位を決める。分からないことは、情報が揃うまで保留にする。
まず生きる。次に、この世界のことを知る。そのうえで、自分の知っている場所がどうなったのか確かめればいい。
「それでいい」
そう言い聞かせた時、外から妙な音が聞こえた。ゴトン、と何か重いものが当たるような音だ。少し間を置いて、また同じ音がする。遼は顔を上げた。昼間、村の端に大きな水車があるのを見ていた。音は、その方向から聞こえてくる。耳を澄ませると、水車が一回転するたびに同じ位置で音が鳴っているようだった。
「一回転ごとか」
気づけば、音の間隔を数えていた。軸受けかもしれない。歯車なら一部が欠けている可能性もある。あるいは軸がずれて、どこかが擦っているのか。
「芯がずれてる?」
そこまで考えて、遼は自分が何をしているのか気づいた。
「何考えてんだろ、俺」
思わず、小さく笑った。それだけで、少し呼吸が楽になった。
世界のことは分からない。自分がどれほど眠っていたのかも、日本が残っているのかも分からない。けれど、あの音だけは分かる。何かがうまく動いていない音だ。
遼は毛布を引き寄せて横になった。
「明日、見せてもらうか」
目を閉じる。静かな夜の村に、壊れかけた水車の音が響いていた。その音を聞きながら、遼はいつの間にか眠りに落ちていた。
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