05_3話 地上
非常脱出口へ向かう整備用通路は、幸い完全には塞がっていなかった。崩れた天井材や流れ込んだ土砂を何度か乗り越える必要はあったが、人ひとりが通れるだけの隙間は残っている。もっとも、休眠から目覚めたばかりの遼にとっては、その程度の移動でも十分にきつかった。緩い上り坂を進むだけで息が切れ、工具と水を詰めた袋がやけに重く感じる。何度目かの休憩で壁にもたれながら、遼は荒くなった呼吸を整えた。
「これ、地上に出る前に力尽きたりしないよな」
冗談のつもりだったが、自分でもまったく笑えなかった。それでも医療区画へ戻るという選択肢はない。基地の中をいくら調べても、何が起きたのかを示す記録はほとんど失われていた。ならば、自分の目で外を見るしかない。非常脱出口は、遼の記憶していた場所に残っていた。厚い鋼製扉は大きく傾き、周囲のコンクリートには何本もの亀裂が走っている。電動開閉機構は当然のように沈黙していたが、幸い手動開放装置までは破壊されていなかった。遼は側面の保守パネルを開き、ライトを向ける。
「切替機構は残ってる。なら、何とかなるか」
少なくとも、これは自分の知っている機械だった。主動力を切り離し、減速機を手動側へ切り替える。長期間動かされていなかったレバーは完全に固着していたため、小型のバールを差し込み、壊さないよう少しずつ力を加えていく。何度か動かしているうちに、ようやく鈍い金属音が響いた。
「よし」
手動ハンドルも簡単には回らなかったが、仕組みが分かっているだけで気持ちはずいぶん違った。壊れているなら原因を探す。動かないなら動かす方法を考える。そういうことなら、自分にもできる。今はそれだけに集中していたかった。休みながらハンドルを回し続けると、やがて扉の内部から大きな音が響いた。ロックが外れた。遼は扉へ両手を押し当て、残っている力を込めた。
「ぐっ…!」
最初はびくともしなかった。息を整えてもう一度押すと、扉は軋んだ音を立てながら、わずかに動いた。その隙間から細い光が差し込んでくる。遼は思わず手を止めた。何日ぶりなのか、何年ぶりなのかすら分からない、本物の太陽の光だった。扉の外側には土砂が積もっていたらしく、押し広げるたびに砂や小石が地下へ落ちてくる。どうにか身体を通せるほどの隙間を作ると、遼は半ば這うようにして外へ抜け出した。眩しさに目を細める。最初に見えたのは、青い空だった。白い雲がゆっくり流れ、木々の枝が風に揺れている。耳を澄ませば鳥の声まで聞こえた。
「外だ」
その場に座り込んだ遼は、しばらく空を見上げていた。施設の中で何度も想像していたような、黒い雲に覆われた死の世界ではない。放射線量は測定できないものの、少なくとも植物はこれでもかというほど繁茂している。ひとまず、人間が即死するような環境ではなさそうだった。そのことに安心しかけて、周囲を見渡した遼はすぐに眉をひそめた。景色がおかしい。ここは山中の軍事施設だったが、非常脱出口の周囲には管理道路と防火帯があったはずだ。少し離れた場所には通信設備も設置されていた。そのすべてが消えている。地面は厚く土に覆われ、大きな木々が何本も根を張っていた。コンクリート製の構造物も大半が森に呑まれ、注意深く探さなければ人工物があることすら分からない。
「アンテナどころか、道までないじゃん…」
これまで何度も頭から追い払ってきた疑問が、また浮かび上がってくる。どれだけの時間が経った。これほどの森が、一朝一夕にできるはずがない。数年。数十年。それ以上。そこまで考えかけて、遼は強く首を振った。
「いや、夢だろ。そうだ。コールドスリープ中でも夢くらい見るよな」
乾いた笑いが漏れた。もちろん、自分でも分かっている。湿った土の匂いも、肌に当たる風の冷たさも、鳥の声も、靴底から伝わる地面の感触も、あまりにも現実的だった。夢ではない。それでも、そう口にせずにはいられなかった。何もかもをまともに受け止めれば、その場で叫び出してしまいそうだった。
「とりあえず下りよう。考えるのはそれから」
また、やることを決める。そうすれば少しは冷静でいられた。斜面を下れば、戦前には道路へ出られたはずだった。木につかまりながら慎重に山を下っていく。弱った脚では何度か滑りそうになったが、森の切れ目が見えた頃には、遠くから水の流れる音も聞こえてきた。そして木々の間を抜けたところで、遼は足を止めた。
「え?」
山の下に広がっていたのは、廃墟ではなかった。水田だった。山裾から盆地へ向かって、何枚もの田が幾重にも広がっている。水を張った田面には青い空が映り、その間を細い畦道と水路が縫うように走っていた。場所によっては稲が青々と伸び、少し高い畑では豆や野菜らしき作物も育てられている。さらに奥には、何十軒もの家が集まった村まであった。遼はしばらく、その風景を見つめた。
「田んぼ」
思わず口からこぼれた。見覚えがある。丹波の盆地に広がる水田。季節ごとに色を変える田園風景。少なくとも、この土地そのものは自分の知る場所から大きく外れてはいない。一瞬だけ、胸の奥に安堵が広がった。
「ここ、やっぱり丹波なんだ」
完全に知らない場所へ飛ばされたわけではない。自分がいた土地は残っている。それだけで、少しだけ足元が戻ってきたような気がした。そして、人がいる。水田の中には何人もの人影が見え、村からは煙も上がっている。
「よかった」
今度こそ、素直に声が漏れた。誰もいないわけではなかった。自分が眠っている間にどれほど時間が経ったとしても、人間そのものが滅びたわけではない。その事実だけで、涙が出そうになるほど安心した。けれど、その安堵は長く続かなかった。田の中を動いているものを見て、遼はゆっくりと首を傾げた。牛だった。大きな牛が木製の農具を引き、その後ろを人が歩いている。少し離れた場所では、何人かが田の中へ入り、手作業で何かをしていた。農道には馬が引く荷車も見える。
「何で?」
遼の知っている丹波なら、田植機やトラクターが走っているはずだった。コンバインもある。ポンプもある。用水路には電動の設備だって使われていた。ところが、目の前にはそれらが一つもない。水田そのものは見慣れているのに、そこで行われている農作業だけが、あまりにも古かった。農業用機械が足りない。燃料がない。戦争による物流崩壊が続いている。頭の中でいくつか理由を並べてみたが、どれもしっくりこなかった。何より、村そのものが奇妙だった。現代的な住宅は一軒もなく、並んでいるのは木や土を主体にした家ばかりだった。道路は舗装されておらず、電柱も街灯も見当たらない。水路もコンクリートで固められたものではなく、土や石で組まれている。木製の水門らしきものを操作して、水を田へ流している人まで見えた。畑や田で働く人々も、遠目ではあるが遼の知っている作業服とはまるで違う服を身につけている。戦災で一時的に文明生活が失われた、という様子ではない。何年も、何十年も、もっとずっと長い間、この生活を続けてきたかのように見えた。
「いや、でも」
遼は必死に理由を探した。長期間孤立した集落。戦後の復興が遅れている地域。何か特殊な思想を持つ共同体。そういうものなら、まだ説明できる。そうであってほしかった。その時、遠くから乾いた音が響いた。遼は反射的に肩を震わせる。銃声かと思った。目を凝らすと、水路の向こうで男が斧を振るって薪を割っていた。
「びっくりさせるなよ」
胸を押さえながら息を吐く。その男の近くでは子供が薪を拾い、少し離れた場所では女性が洗濯物を干していた。あまりにも普通の生活だった。誰も空を警戒していない。防護服も着ていない。軍用車両も走っていない。遠くで爆発音がするたびに身を縮めていた、遼の知る戦時下の日本とはまるで違っていた。彼らにとって、この生活こそが普通なのだ。そんな考えが浮かび、遼は急いで否定した。
「違う違う。まだ何も分かってない」
口に出してしまう。独り言でも言っていなければ、思考が勝手に最悪の答えへ向かってしまう。さらに遠くへ目を向けると、盆地の向こうにもう少し大きな町が見えた。建物が集まっているだけではない。町の周囲を灰色の壁が囲んでいる。
「城壁?」
城壁のように見えるのではない。どう見ても城壁だった。門らしき場所から荷車が出入りし、その上には人影まで見える。そこまで見たところで、遼の頭の中に残っていた「戦争直後」という説明が音を立てて崩れ始めた。ここは避難民の集落ではない。一時的に電気や燃料を失っただけの社会でもない。それでも、その先を考えることを遼自身が拒んでいた。認めれば、もう元には戻れない気がした。
「何なんだよ、これ」
地上へ出れば答えがあると思っていた。
実際には、分からないことが増えただけだった。地下で見た錆びた車両や植物の根は、事故や保存環境のせいだと自分に言い聞かせることができた。だが、目の前には人間がいる。その人間たちが、自分の知っている丹波の水田で、自分の知らない生活を当たり前のように営んでいる。そのことの方が、何よりも恐ろしかった。遼は近くの木にもたれ、何度か深く息を吸った。
「大丈夫。人はいる。まずそれでいい」
自分に言い聞かせる。
「話を聞けば分かる。ここがどこか聞いて、今がいつか聞いて……それから考えればいい」
声に出して順番を決めると、少しだけ呼吸が落ち着いた。今がいつなのか。ここが本当に丹波なのか。戦争がどうなったのか。そして、日本がどうなったのか。聞きたいことはいくらでもある。遼は村へ向かおうとして、自分の姿を見下ろした。旧軍の作業服に作業ベルト。腰には見慣れない規格の工具を差し、肩から非常用品の袋を下げている。
「これ、怪しすぎない?」
今度は別の不安が湧いてきた。いきなり村へ入って大丈夫なのか。警察はいるのか。そもそも日本語が通じるのか。もし言葉すら変わっていたら。そこまで考えて、遼はまた思考を止めた。
「一個ずつ。一個ずつでいい」
何度目になるか分からない独り言を呟いた、その時だった。畦道の方から物音がした。振り返ると、籠を抱えた子供が立っていた。十歳にもならないだろう。山から突然現れた遼を、驚いた顔でじっと見つめている。遼も動けなかった。服装は明らかに見慣れないものだったが、顔立ちは自分と大きく変わらない。人間だ。当たり前のことなのに、それだけで少し救われた気がした。先に口を開いたのは遼だった。
「あの、こんにちは」
ひどく間の抜けた挨拶だった。子供は目を丸くした。だが、その表情を見る限り、少なくとも言葉そのものは伝わったらしい。
「通じた」
遼が小さく安堵した、その直後だった。子供が突然村の方を振り向く。
「父ちゃーん! 鬼だ! 山から変な鬼が出てきた!」
「ちょ、待って! 俺は鬼じゃ――」
大声は水田の向こうまでよく響いた。何人かの大人が一斉にこちらを振り向く。遼はその場で固まった。
「…もう少し言い方なかった?」
当然、答えてくれる者はいない。やがて農具を置いた数人の男たちが、警戒するようにこちらへ向かって歩き始めた。人に会えた。言葉も通じた。本来なら、喜ぶべきことだった。それなのに遼の心臓は、地下を歩いていた時よりも速く鳴っていた。自分が彼らにとって何者に見えるのか。そして彼らが、自分にとって何者なのか。まだ何一つ分からない。遼は逃げ出したくなる気持ちを押し殺しながら、その場に立ち尽くしていた。
地下施設を出て初めて出会う人々。そして、遼がまだ知らないこの時代を生きる人々が、ゆっくりと近づいてきていた。
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