04_2話 誰もいない
通路は、遼の記憶よりもずっと狭く感じられた。実際に幅が変わったわけではない。照明が消え、天井材が落ち、垂れ下がった配線や配管が視界を塞いでいるせいだった。遼は小型ライトを前へ向け、壁に手を添えながらゆっくりと進んだ。足元には埃だけでなく、細かな砂や土まで入り込んでいる。医療区画を出たときに 見つけた植物の根も、奥へ進むほど数を増していた。細い根が壁の亀裂から伸びているだけならまだしも、場所によっては腕ほどの太さになり、床材を押し上げている。
「地下だぞ、ここ」
誰に言うでもなく呟いた。施設の外壁が破損し、そこから植物が入り込んだのだろう。理屈としては理解できる。問題は、ここまで育つのにどれだけの時間が必要だったのかということだった。
「管理室。まず管理室だ」
遼は考えるのをやめるように、わざと声に出した。何かやることがある方がいい。立ち止まって考え始めると、頭の中に嫌な想像ばかり浮かんでくる。やがて壁に取り付けられた案内表示がライトに照らされた。
《施設管理区画 →》
文字を見ただけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。自分の知っている文字で、自分の知っている場所が示されている。ここはまだ、自分が勤務していた基地なのだ。少なくとも、それだけは変わっていない。だが管理区画へ続く途中で、防火扉が半端な位置で止まっていた。開いている隙間は三十センチほどしかない。
「これ、通るのか?」
以前なら身体を横にすれば難しくない幅だった。しかし今は休眠から覚めたばかりで、まともに歩くだけでも体力を使う。そのうえ、扉の向こうは真っ暗だった。
「嫌だなあ…」
しばらく迷った末、遼は床へしゃがみ込んだ。まずライトだけを向こう側へ差し入れて照らす。崩れた天井材と埃が見えるだけで、動くものは何もなかった。
「何もいないって確認してから安心してる時点で、もう完全にホラーなんだよな」
そう呟きながら、遼は身体を横向きにして隙間へ押し込んだ。途中で腰が引っかかる。
「うそだろ?」
息を止めて身体を捻り、どうにか反対側へ抜けた。それだけで息が上がる。膝に手をついて呼吸を整えながら、遼は自分の体力のなさを改めて思い知らされた。その先に、資材保管室があった。扉は半分開いたままになっている。そのまま通り過ぎようとして、遼は足を止めた。
「工具は、あった方がいいな」
管理室の設備が生きている保証はない。端末や配電盤を開けることになれば、医療区画で拾った簡易工具だけでは心許なかった。保管室の中も荒れていた。棚は傾き、収納箱の多くが床へ落ちている。遼は足元に転がっていた工具箱を持ち上げようとした。その瞬間、樹脂製の取っ手が音を立てて割れた。
「えっ」
手の中に残った破片を見る。表面は白く変色し、指で押すだけでも崩れそうになっていた。別の箱を開けると、中に入っていたゴム製のシール材も硬化してひび割れている。作業用のゴム手袋に至っては、触れただけで表面がぽろぽろと剥がれ落ちた。遼は黙り込んだ。数年放置した程度で、ここまで劣化するものなのか。保存状態が悪ければあり得るのかもしれない。湿気も多い。浸水した時期があった可能性もある。いくらでも理由は考えられる。
「使えるものだけ探そう」
それ以上考えず、遼は金属製の工具を一つずつ確認していった。小型レンチ、ドライバー、プライヤー、六角レンチ。それに小さなバール。錆の少ないものだけを選び、比較的状態の良かった作業ベルトへ差し込んでいく。乾電池は全滅していた。予備バッテリーもほとんどが膨張し、外装が割れている。使えそうなものは思っていたよりずっと少なかった。それでも腰に工具を下げると、不思議と少しだけ安心した。使い慣れた道具がある。それだけで、自分が何をすればいいのか思い出せる気がした。
「よし」
遼は再び管理室へ向かった。途中で、車両整備区画へ続く通路が目に入った。立ち止まり、少し迷う。あそこには軍用トラックや作業車が保管されていたはずだった。一台でも動けば、地上へ出た後の移動に使える。
「見るだけ見ておくか」
期待は、区画へ入った瞬間に消えた。車両は残っていた。ただし、遼の知っている姿ではなかった。
「なんだよ、これ」
軍用トラックの塗装はほとんど剥がれ落ち、車体全体が赤黒く錆びていた。タイヤは潰れ、一部はゴムそのものが崩れている。窓は割れ、座席も形を失っていた。別の車両に至っては外板の一部が腐食して落ち、内部の骨格がむき出しになっている。遼は一台のトラックへ近づき、ボンネットに手をかけた。動かない。ヒンジが完全に固着している。
「放置車ってレベルじゃないだろ」
声に出した途端、胸の奥が冷えた。どれくらいの時間があれば、こんな状態になる。遼には正確な判断はできない。車両整備はできるが、長期腐食の専門家ではない。温度や湿度、浸水の有無でも劣化速度は大きく変わる。だから、これだけで何十年だと決めつけることはできない。
「そうだ。条件が悪かっただけだ」
自分に言い聞かせる。だが、口に出せば出すほど、言い訳をしているように聞こえた。遼は逃げるように車両区画を離れた。管理室の扉は開いたままだった。
「班長?」
中へ向かって声をかける。
「誰かいますか?」
返ってきたのは、自分の声が壁に反響する音だけだった。中へ入る。壁面ディスプレイはすべて消え、中央制御卓にも電源が入っていない。遼は保守パネルを開け、配電状況を確認した。主電源は停止。非常系統からの入力もない。ここまで来る途中の状況から考えれば、驚くような結果ではなかった。
「まあ、そうなるよな」
問題は記録だった。休眠装置の時計が死んでいる以上、基地側のログが残っていれば状況を確認できる。遼は管理端末を開き、内部のストレージを調べた。一台目は端子が腐食している。二台目も同じ。三台目は比較的状態がよかった。
「頼む」
残っていた簡易電源を接続する。一瞬だけ画面が明るくなった。
「おっ」
遼は身を乗り出した。しかし表示が出る前に画面は暗くなった。
「くそ」
思わず拳を握ったが、机を叩く寸前で止めた。壊れたものに怒っても仕方がない。深く息を吐く。管理室の奥には、施設本体から独立した環境監視用の端末があったはずだ。地上の監視カメラや気象センサー、通信設備などを最低限確認するためのものだ。遼はそちらへ移動し、手動で診断を開始した。
外部通信アンテナ。
《NO RESPONSE》
地上監視カメラ。
《NO RESPONSE》
気象センサー。
《NO RESPONSE》
衛星通信。
《NO LINK》
そして最後に、外部アンテナの状態を確認する。
《DEVICE LOST》
「ロスト?」
遼は画面を見つめた。単に故障しているのではない。端末側が、外部装置そのものを認識できていない。配線図を確認すると、地上へ向かう途中で回線が完全に途切れていた。地震か爆撃で外部設備が吹き飛んだ。そう考えれば説明はつく。少なくとも、そう考えることはできる。しかし自分の中では、少しずつ別の可能性が大きくなっていた。遼は端末から離れた。
「出口を探そう」
これ以上管理室にいても、欲しい答えは出そうにない。それなら直接外へ出るしかない。地上へ出れば何か分かる。街があるかもしれない。誰かいるかもしれない。軍でも警察でも、何でもいい。自分以外の人間がいれば、それでいい。外へ出る前に、補給区画へ寄ることにした。水と食料は多い方がいい。だが、補給倉庫も管理室と大差なかった。棚の多くは空になり、残っていた保存食も包装が劣化している。膨らんだ缶詰や、中身が変色したパックも多かった。
「これも駄目か」
ひとつずつ確認していくと、密閉型の非常食が数個だけ残っていた。外装は傷んでいるが、内部容器までは破損していない。水も未開封のものを二本確保できた。食料、水、工具、ライト、呼吸器。最低限のものは揃った。遼は持ち物を並べ、使えるものと使えないものを分けた。すると少しだけ心が落ち着いた。やることが決まっている間は余計なことを考えずに済む。問題を見つけて、確認して、使えるものを選ぶ。いつもの仕事と同じだった。だから、ひたすら手を動かした。
何年眠っていたのか。なぜ誰もいないのか。そんなことは今は考えない。そう決めた。地上へ続く主通路に辿り着くまでは。
「嘘だろ」
遼はその場で足を止めた。主通路は途中から完全に塞がれていた。ただ崩落しただけではない。地上側から大量の土砂が流れ込み、通路の奥深くまで堆積している。そこには太い植物の根が絡みつき、一部は小さな幹のようにすらなっていた。ライトを近づける。土砂には何層もの境目があった。一度に流れ込んだのではない。古い土の上に別の土が積もり、その間を根が走り、さらにその上へ新しい土が重なっている。遼は地質の専門家ではない。それでも、これが昨日や今日にできたものではないことくらいは分かった。数年なのか。十年なのか。それ以上なのか。そして、頭の中にそれまで避けていた数字が浮かんだ。
「百年なんて」
自分で口にした瞬間、遼は息を止めた。
「そんなわけないだろ」
あり得るはずがない。休眠装置はそんな長期間を想定したものではない。自分は二十七歳だった。戦争が起き、基地が被災して、救援を待つために休眠装置へ入った。それだけだったはずだ。なのに今、自分の目の前には、自分が知らないほど長い時間が流れたような痕跡ばかりが残されている。遼は壁へ背中を預けた。呼吸が浅くなる。
このまま考え続ければ、何か取り返しのつかない答えに辿り着いてしまいそうだった。
「やめよう」
目を閉じる。
「今考えても分からない。だったら、考えるだけ無駄だ」
自分でも乱暴な理屈だと思った。それでも今は、それでよかった。主通路が使えないなら別の出口を探す。整備用坑道。非常脱出口。基地には複数の避難経路があった。一本ずつ確認していけばいい。故障した設備と同じだ。一つの系統が死んでいるなら、別の系統を探す。そう考えれば、まだ動ける。遼は大きく息を吸い、壁から背を離した。怖くないわけではない。今すぐ医療区画へ戻って、誰かが迎えに来るまで待っていたいくらいだった。だが、もう誰かが来るという保証はなかった。
「出口を探そう」
それだけ考える。遼は腰の工具を確かめ、小型ライトを握り直した。そして、誰もいない基地の中を、次の非常脱出口へ向かって歩き始めた。
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