03_1話 目覚め
頬に冷たいものが触れていた。
柏木遼は薄く目を開けた。視界は暗く、すぐ近くで緑色のランプだけが弱々しく点滅している。混濁した意識のまま身体を動かそうとするが、思うように力が入らない。手足は鉛のように重く、喉は焼けるように乾いていた。頭にも鈍い痛みが残っている。
「……ここは?」
声に出した瞬間、途切れていた記憶が少しずつ戻ってきた。
鳴り響く警報。地下施設を揺らした衝撃。停止寸前だった冷却ポンプ。避難した医療区画。そして、救援を待つために入った緊急低代謝休眠装置。目の前を覆う透明なカバーを見て、遼はようやく自分の置かれた状況を理解した。
「起こされた、のか?」
本来なら、覚醒時には医療支援システムが休眠時間や身体状態を案内するはずだった。しかし音声は聞こえない。生きている表示も、《生命維持終了》《手動開放許可》の二つだけだった。
「故障?」
嫌な予感を覚えながら、遼は非常開放レバーへ手を伸ばした。指先が思うように動かない。かじかんだような手に何度も力を込め、長い時間をかけてようやくロックを外す。カバーが持ち上がった瞬間、隙間から大量の埃が崩れ落ちてきた。
「げほっ、げほっ!」
咳き込みながら、どうにか蓋を押し上げる。そして、遼は動きを止めた。医療区画は、記憶にある姿とは大きく変わっていた。照明はほとんど消え、白かった壁材は黄色く変色している。天井材の一部は剥がれ落ち、むき出しになった金属部には錆が広がっていた。床には埃が積もり、倒れた医療ワゴンも放置されたままだ。
「どういうことだ?」
救援まで数日。長くても数週間。そのつもりで眠った。だが、目の前の光景はそんな時間では説明できそうになかった。遼は慎重に身体を起こした。カプセルから出ようと足を床につけた瞬間、膝から力が抜ける。
「うわっ!」
慌ててカプセルの縁にしがみついた。休眠後に筋力が低下することは知っていた。訓練でも説明を受けている。それにしても、ここまで身体が動かないとは思っていなかった。しばらくそのまま呼吸を整え、指先から順番に身体を確認する。手足は動く。麻痺もなさそうだ。右肩には、休眠前に崩れた通路で打ちつけた痛みがまだ残っていた。
「やめてよ。ホラー展開は苦手なんだって…」
恐怖を紛らわせようとしただけの独り言だった。ところが思った以上に大きな声が無人の医療区画に反響し、かえって不気味さが増した。
「…言わなきゃよかった」
返事はない。当たり前なのに、その静けさが妙に怖い。休眠前だって、怖くなかったわけではない。あの時は班長がいて、周囲には仲間がいて、やるべき仕事もはっきりしていた。冷却系を直さなければ誰かが困る。そう思えば、怖くても身体は動いた。けれど今は違う。命令する上司も、隣で悪態をつく同僚もいない。何をすれば正解なのかさえ分からない。一人きりになると、自分が大して肝の据わった人間ではないことを嫌でも思い知らされる。 遼は喉の渇きに耐えられず、休眠装置の側面を調べた。覚醒者用の収納区画を見つけ、中から補水液を取り出す。容器に膨張や液漏れがないことを確認してから、恐る恐る口に含んだ。
「うま」
ただの補水液が、驚くほどうまかった。少しずつ飲んでいるうちに、ようやく頭も働き始める。何があった。みんなはどこへ行った。野口班長は。基地はどうなった。疑問ばかりが浮かんでくる。遼は額を押さえた。
「焦るな。何するにしても、まず情報だろ?」
自分に言い聞かせ、壁際の医療端末へ向かった。通常システムは完全に停止していたが、何度か操作すると保守用の簡易モードだけが立ち上がった。遼は真っ先に自分の休眠記録を開く。
《DATA ERROR》
「……は?」
再試行する。
《TIMEBASE INVALID》
「時計が飛んでる」
施設管理ネットワークへの接続も試したが、こちらも応答がない。辛うじて残っていた保守記録を確認すると、電源断とストレージ障害を何度も繰り返した形跡が残っていた。胸の奥がざわつく。数週間ではない。数か月。いや、もしかすると数年。そんな考えが浮かんだ。
「いや、そんなはずない」
遼は端末から目を逸らした。基地が大きな被害を受けて、救助が遅れただけかもしれない。施設の一部が放棄され、自分の休眠装置だけ覚醒処理に失敗していた可能性だってある。そう考えればいい。そうであってほしかった。隣に並ぶ休眠装置を見る。五号機も四号機も空だった。三号機はカバーが半開きになっている。
「先に起きたのか?」
誰かが自分より先に覚醒して外へ出た。救援されたのかもしれない。その可能性に縋るように、遼は室内の非常収納を探した。残っていたのは、小型ライト、簡易呼吸器、作業手袋、救急用品、少量の水と栄養食。それに多目的ナイフが一本。軍事施設の備蓄として考えれば、あまりにも少ない。だが今の遼には十分だった。小型ライトを点灯する。残量表示はわずかだったが、暗闇を歩く程度なら使える。医療区画の自動扉は反応しなかった。遼は手動開放レバーを引き、全身の力を使って少しずつ扉を押し開ける。開いた隙間から、冷たく湿った空気が流れ込んできた。
「湿気?」
地下施設は空調を停止した程度で、簡単に外気が入り込むようには造られていない。遼はライトを通路へ向けた。落下した天井材。茶色く錆びた配管。床を走る亀裂。休眠装置だけではない。施設そのものが、遼の記憶とは違う姿になっていた。そして、ライトの光が通路の端を照らした時。
「は?」
遼は思わず声を漏らした。壁の亀裂から何かが伸びている。細い、植物の根だった。一本ではない。壁と床の隙間を縫うように、何本もの根が地下通路へ入り込んでいる。遼は近づくこともできず、その場から見つめた。ここは地下二階だ。地表から十数メートルはある。施設の外壁を越え、植物がここまで根を伸ばすには――。
「いやいやいや」
十年。二十年。もっと。
頭の中に浮かんだ数字を、慌てて振り払う。
「ありえないって。絶対に嘘」
声が震えた。自分でも分かる。怖かった。目の前にあるものを理解したくなかった。もし本当に、それほど長い時間が経っていたら。
戦争は。基地は。日本は。自分の知っている人たちは。
「まだ分からない」
遼は何度も自分に言い聞かせた。
「管理室まで行けば分かる。ログもあるし、外部センサーだって…監視カメラだって残ってるかもしれない」
何か一つでも生きていればいい。外部通信でも、環境センサーでも、地上監視カメラでもいい。今がいつなのか。戦争はどうなったのか。救援は来たのか。外に人はいるのか。ひとつずつ確認すればいい。
だが、本当は確認すること自体が怖かった。遼は小型ライトを握り直した。手が震えている。このままカプセルの横に座っていたかった。誰かが迎えに来るまで待っていたかった。けれど、そんな都合のいいことが起きないのも分かっていた。
水も食料も限られている。施設が安全かどうかすら分からない。
「まずは電源だ」
電源を確認する。系統を追う。故障箇所を探す。自分の分かることから始めればいい。機械なら、少なくとも人間よりは分かる。遼は大きく息を吐き、壁に手を添えながら暗い通路へ一歩踏み出した。眠りについたあの日から、どれほどの時間が過ぎたのか。その答えを、遼はまだ知らない。そして今はまだ、知りたいとも思えなかった。
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