16_閑話 町の日々
港の賑わいを背に、遼は平助と並んで海沿いの道を歩いていた。
今日は久しぶりの休日だ。前日、平助から釣りに誘われ、せっかくなので付き合うことにしたのである。
「しかし、こんなところに釣り場があるんですね」
「いい場所なんだが、ちょいと道が悪くてな。ほら、こっちだ」
平助は竹竿を二本担ぎ、慣れた足取りで崩れた建物の間へ入っていく。
市場を離れるにつれて人通りは少なくなり、道の両側には古いコンクリートの壁が増えてきた。かつて道路だったらしい場所はところどころ崩れ、隙間から雑草が伸びている。
平助の後について瓦礫の脇を抜け、半ば崩れた階段を下りる。
その先に広がっていた景色を見て、遼は思わず足を止めた。
◇
「おお……」
抜けるような青空の下、穏やかな海が太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
入り江を囲むように、いくつもの高層ビルが海面から突き出している。
かつては灰色一色だったはずの建物も、今では緑に覆われていた。崩れた壁には厚い苔が生え、窓のあった場所から蔦が垂れ下がっている。上層階にはいつの間に根づいたのか、小さな木々が枝を広げ、潮風に葉を揺らしていた。
コンクリートの灰色、草木の鮮やかな緑、そして空と海の青。
その色彩が、太陽の下でくっきりと浮かび上がっていた。
足元の海を覗き込むと、水は驚くほど澄んでいる。海中に沈んだ瓦礫の間を、小さな魚の群れが泳いでいた。何十匹もの銀色の魚が一斉に向きを変えるたび、鱗が陽光を反射して水中に光の帯を作る。
崩れたビルの壁面には海鳥が止まり、その下では波が静かにコンクリートを洗っていた。
「どうだ、いい場所だろ?」
平助が得意げに言った。
「ええ。すごく綺麗ですね」
遼はもう一度、周囲を見渡した。
三百年前には、ここにも道路があり、店があり、大勢の人々が行き交っていたはずだ。それが今では、魚や鳥の住処になっている。
不思議な光景だった。
「この辺りは魚が多いんですか?」
「おう。海の底まで瓦礫だらけだからな。魚が隠れる場所には困らねえ」
平助は海面から突き出した鉄骨を指さした。
「その代わり、船は入れねえ。底を引っかけたら大変だからな。おかげで魚がよく育つんだよ」
「なるほど。天然の魚礁みたいなものですね」
「ぎょしょう?」
「ああ、魚が集まる場所ってことです」
「そういうことか。まあ、そんな難しい名前は知らんが、昔からよく釣れる場所なんだ」
平助は笑いながら、海に突き出した平らなコンクリートの上に腰を下ろした。
近くには釣り糸を垂らしている男が二人いる。少し離れたところでは、親子らしい二人が水面を覗き込んでいた。
「ここは町の連中がよく来るんだ。獲りすぎねえってのが昔からの決まりでな。商売にする魚じゃなく、自分たちで食う分だけ釣るのさ」
「へえ。いいですね、そういうの」
「獲れるからって根こそぎ持っていったら、次に来た奴が困るだろ。まあ、網を入れようにも船が近づけねえんだけどな」
平助は竹竿を一本、遼に手渡した。
「さあ、始めるか」
◇
釣りを始めてしばらくすると、平助の浮きが沈んだ。
「お、来た来た」
竿を上げると、手のひらほどの魚が勢いよく跳ねながら姿を現した。
「おお、早いですね!」
「まあな。こいつは煮ても焼いてもうまいぞ」
平助は慣れた手つきで針を外し、魚を籠に入れた。
その横で、遼の浮きは一向に動かない。
「平助さん、何かコツがあるんですか?」
「そりゃあ、魚のいるところに餌を落とすことだな」
「それが分からないんですよ」
「見てみろ。あの岩の陰に小さいのが集まってるだろ。ああいう場所の近くを狙うんだ」
教えられた場所へ糸を垂らしてみる。
すると、ほどなく浮きが小さく揺れた。
「あ、来た!」
「慌てんなよ。まだ食いついてねえ」
遼は竿を握り直し、浮きを見つめた。
少し沈んだ。もう一度沈む。
「今だ!」
平助の声に合わせて竿を上げる。
勢いよく飛び出してきたのは、指ほどの小さな魚だった。
「……小さいですね」
「はっはっは! まあ、最初はそんなもんだ!」
魚は元気よく跳ねている。遼は針を外し、そっと海へ戻した。
「大きくなったらまた来いよ」
「そいつが律儀に戻ってきたら大したもんだな」
二人で笑い、再び釣り糸を垂らした。
海から吹く風は心地よく、日差しも暖かい。釣り糸を眺めているだけで、時間がゆっくり過ぎていく。
話題は自然と町の商売人たちへ移った。
新吉は昔から頑固だったとか、市場の魚屋は値切りには厳しいくせに余った魚をよく近所へ配っているとか、そんな話が次々に出てくる。
遼も、最近覚えた店や顔見知りの名前を挙げながら話に加わった。
会話が途切れると、二人は黙って海を眺めた。
波が寄せるたび、足元の小石がかすかな音を立てる。廃墟の壁面では鳥が鳴き、頭上を白い雲がゆっくり流れていった。
何も話さずに過ごす時間も、悪くなかった。
◇
「おや、平助じゃないか」
声をかけてきたのは、釣り竿を担いだ年配の男だった。
「おう。今日は遅かったな」
「孫にせがまれてな。ほれ、挨拶しな」
男の後ろから、小さな男の子が顔を出した。
「こんにちは!」
「こんにちは」
遼が挨拶すると、男の子は平助の籠を覗き込んだ。
「平助のおっちゃん、もう三匹釣ってる!」
「今日は調子がいいからな」
「こっちの兄ちゃんは?」
「俺? まだ持って帰れるようなのは釣れてないんだ」
「えー! 下手だなあ!」
「ははは。そうみたいだな」
男の子は得意げに胸を張り、少し離れた場所で釣りを始めた。
ところが、しばらくすると本当に魚を釣り上げた。
「釣れたー!」
「おお、すごいな!」
遼が声を上げると、男の子は満面の笑みで魚を掲げた。
「兄ちゃんも頑張れよ!」
「おう! 負けないぞ!」
平助が横で腹を抱えて笑っている。
「笑いすぎですよ」
「いやあ、悪い悪い。まさか子供に励まされるとはな!」
その後も釣り場には、ぽつぽつと町の人々が訪れた。
市場で見かける女性が挨拶していき、以前修理を頼まれた男からは「この前の道具、よく動いてるよ」と声をかけられた。
遼もそのたびに手を振り、言葉を返す。
昼を過ぎる頃には、ようやく遼の竿にも食べられそうな魚がかかった。
「やった! 今度はちゃんとした大きさですよ!」
「おう、上出来だ!」
釣り上げた魚を籠に入れると、遼は満足げに息をついた。
「いやあ、釣りって楽しいですね」
「だろう? また来たくなるぞ」
「それは間違いないですね」
平助は笑いながら釣り糸を垂らし直した。
「しかし、お前さんもすっかり町の人間になったなあ」
「そうですか?」
「ああ。さっきから知り合いに声かけられてばっかりじゃねえか」
「平助さんほどじゃないですよ」
「そりゃあ、俺はここで何十年も商売してるからな。だが、お前さんは来たばかりだろ」
「まあ、そうですね」
言われてみれば、確かにそうだった。
この町に来たばかりの頃は、道も分からず、知り合いもいなかった。それが今では、仕事を頼んでくれる人がいて、通りを歩けば挨拶を交わす相手がいる。
こうして休日に釣りへ誘ってくれる人までできた。
「思ってたより、住みやすい町ですよね」
「だろ? 俺は結構気に入ってるんだよ、ここが」
「何十年も住んでるんですから、そりゃそうでしょう」
「違いねえ!」
平助は愉快そうに笑った。
遼も笑い、再び海へ目を向けた。
太陽の光が海面で砕け、青い水の中を小魚たちが泳いでいる。灰色の廃墟には緑が茂り、その上を一羽の海鳥が横切っていった。
穏やかな午後だった。
◇
日が傾き始めた頃、二人は釣り道具を片づけた。
平助の籠には数匹の魚が入り、遼もどうにか夕食のおかずになる程度には釣ることができた。
「初めてにしちゃ上出来だな」
「半分くらい平助さんのおかげですけどね」
「分かってるじゃねえか」
「そこは否定してくださいよ」
二人で笑いながら、来た道を引き返した。
夕暮れの町には、夕飯の支度をする匂いが漂っていた。市場では店じまいが始まり、荷車を引く男たちが忙しそうに行き交っている。
「そうだ、リョウ。また来週あたり行くか?」
「いいですね。次はもう少し釣りたいです」
「だったら、今度は別の場所も教えてやるよ」
「まだあるんですか?」
「そりゃあな。何十年もこの町に住んでるんだ。穴場ならいくらでも知ってるぞ」
得意げな平助に、遼は笑って頷いた。
通りの向こうには、夕日に照らされた水都が見えている。
水没した高層ビルの影が海面に長く伸び、その隙間を小舟がゆっくりと進んでいた。
かつての神戸。
その景色を見ると、今でも胸の奥が少し痛む。
けれど今日の遼は、海中で銀色に輝いていた小魚の群れや、崩れたビルに茂る緑を思い出していた。
「あ、そうだ。平助さん」
「ん?」
「今度は自分の釣り竿を用意しておきますよ」
「おう。だったら新吉に聞いてみな。いい竿を作る職人を知ってるはずだ」
「そうします」
遼は頷き、手にした魚の籠を持ち直した。
さて、今夜はこれをどう料理してもらおうか。
そんなことを考えながら、平助と並んで夕暮れの町を歩いていった。
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