12_1話 水都の港町
山道の先に、いくつもの灯りが見えた。
遼が港町にたどり着いた頃には、太陽はすっかり西へ傾いていた。山裾から海へ向かって家々が並び、その先には大小さまざまな船が浮かんでいる。板張りの建物もあれば、石造りの倉庫らしいものもあった。港に近づくにつれ、潮の匂いに魚や焚き火の匂いが混じり始めた。
町の向こうには水都が広がっていた。
夕日に染まった海面から、窓のない高層建築が突き出している。途中で折れた高架道路の影を小舟が通り抜け、崩れかけた塔の周りを白い鳥が飛んでいた。山の上で見たときとはまた違う美しさだった。水辺に建つ新しい家々まで含めて、一枚の絵のように見える。
あの海の下に、かつての神戸がある。
そう考えると胸の奥が重くなった。昼間、山の上で泣いたせいか、目のあたりもまだ少し痛む。それでも遼は立ち止まらず、港へ続く道を歩いた。
「おーい、そっち持て! 落とすなよ!」
威勢のいい声が飛んできた。桟橋では男たちが大きな魚籠を船から下ろしている。一人が足を滑らせかけると、周囲から一斉に野次が飛んだ。
「遊んでないで仕事しろ!」
「うるせえ、手ぇ貸せ!」
男たちが笑い、近くで魚を並べていた女まで声を上げた。その脇を子供が二人、追いかけっこをしながら走り抜け、年配の男に「走るなら向こうへ行け!」と怒鳴られている。子供たちは返事だけして、また駆けていった。
港は騒がしかった。荷車の車輪が石畳を鳴らし、魚を焼く煙が風に流れる。船員らしい男たちは仕事を終えたのか、店先で飲み物を手に談笑していた。誰もが忙しそうで、それなりに楽しそうだった。
遼は思わず足を緩めた。
自分の知っている街が海に沈んでいる。そのすぐそばで、これだけ大勢の人が笑っている。おかしな話ではない。ここに住む人たちにとっては、今日も魚が獲れ、仕事が終わり、夕飯を食べる時間が来ただけなのだろう。
「……たくましいな」
小さく呟いてから、遼は首を傾げた。たくましい、というのも違う気がする。彼らは何かを乗り越えた顔をしているわけではない。昔の自分がそうだったように、当たり前の一日を過ごしているだけだ。
そのことが嬉しいような、寂しいような。自分でも整理がつかなかった。
考え込んでいると、腹が大きく鳴った。
「……とりあえず、飯と寝床だな」
気持ちの整理よりも先に、やることがある。遼は荷物を背負い直し、宿屋らしい看板を探した。
◇
見つけたのは、港から一本入った通りにある小さな宿だった。一階は食堂になっており、開け放たれた戸口から賑やかな声と煮込み料理の匂いが流れてくる。
「泊まれますか?」
「一人かい? 空いてるよ。飯はどうする?」
「お願いします。できれば、何日か泊まりたいんですが」
「金さえ払ってくれりゃ何日でも。荷物は上の部屋に置いといで」
店を切り盛りする中年の女は、手際よく部屋を案内してくれた。狭いが寝台は清潔で、窓からは港の灯りが少し見えた。料金を聞いて手持ちの金を数える。村を出るときにもらった金と、旅の途中で残した分。しばらくは暮らせるだろうが、いつまでも宿暮らしというわけにはいかない。
階下へ戻ると、食堂はさらに混み合っていた。遼は隅の席で煮込みとパンを受け取り、周囲の話し声を聞きながら食べた。向かいの卓では船乗りらしい男たちが今日の漁を自慢し合い、奥では商人らしい二人が真剣な顔で帳面を覗き込んでいる。
「初めて見る顔だね。商売かい?」
皿を下げに来た宿の女が尋ねた。
「いえ、旅の途中で。しばらくこの町にいようかと思ってます」
「そうかい。仕事を探すなら港か市場だね。船乗りも遺物漁師も、働き手なら欲しがるよ」
「遺物漁師?」
「水都で古い物を拾ってくる連中さ。明日の朝、市場へ行けば嫌でも分かるよ」
女は次の客に呼ばれ、足早に去っていった。
遼はパンをちぎり、残った煮込みを拭って口へ運んだ。塩気が少し強いが、温かくてうまい。外では誰かが歌い始め、食堂の客が調子外れだと笑っている。
こんな場所で食事をしていることが、まだ不思議だった。それでも腹は満たされ、身体は正直に眠気を訴えてくる。部屋へ戻った遼は、明日になったら市場を覗こうと考えながら寝台に倒れ込んだ。
◇
翌朝、港は昨日以上に賑わっていた。
市場には魚や野菜、干し肉、布地、木工品、金物まで、ありとあらゆる品が並んでいる。声を張り上げる売り手と値切る客、その間を器用にすり抜ける荷車。朝食代わりに買った焼き菓子をかじりながら、遼は人の流れに沿って歩いた。
通りの向こうには、海面から突き出した大きな建物の残骸が見えた。かつては何十階もある高層ビルだったのだろう。その足元では小舟が魚を積み替え、子供たちが岸壁に座って足をぶらぶらさせている。
遼にはどうしても、そこが廃墟に見えた。けれど、子供たちにとっては海と同じくらい見慣れた景色なのだろう。建物の方を気にする様子もなく、釣り糸を垂らしては互いの獲物を覗き込んでいた。
いつか、この景色を当たり前だと思う日が自分にも来るのだろうか。
答えは出なかった。代わりに、目の端に妙なものが映った。
「ん?」
露店の台に、古い金属製の箱が積まれている。隣には歯車らしい円盤や、先端の折れた工具、何に使うのか分からない筒まで並んでいた。遼は思わずそちらへ近づく。
「兄ちゃん、古物に興味あるのか?」
店番の男が声をかけた。日に焼けた顔に、無精ひげ。足元にはまだ濡れた縄と木箱が積まれている。
「これ、全部売り物ですか?」
「そうだよ。今朝揚がったのもある。見るだけなら銭はいらねえ」
男が顎で示した先では、別の男たちが船から金属の塊を運んでいた。塊には貝殻がこびりつき、縄の隙間から海水が滴っている。
「あの人たちが、遺物漁師ですか?」
「おう。水都の中から売れそうなものを探すんだ。潜る奴もいるが、崩れた建物は危ねえからな。運と腕が要る仕事さ」
男はそう言って、台の端に転がる金属片を手に取った。
「こいつは見た目がいいから飾り物。そっちは鍛冶屋に売る鉄屑。たまに動く品が見つかりゃ大当たりだが、滅多にねえ」
遼は品物を眺めた。文字の消えた銘板、割れた樹脂の取っ手、錆びた軸。中には見覚えのある部品もあったが、使い道の分からないものも多い。元の姿すら分からないものばかりだ。
それでも、胸の奥が少し騒いだ。
「……こういうの、結構好きなんだよな」
気づけば、焼き菓子の残りを慌てて口に放り込み、品物を一つずつ覗き込んでいた。
◇
台の下に置かれた木箱の中で、遼は小さな巻き上げ機を見つけた。
手回し式のウインチだった。金属の枠に太い軸と歯車を収め、側面にはハンドルが付いている。見た目はひどく古びているが、枠の歪みは少ない。表面に錆は浮いているものの、海水に長く浸かっていた品とは違うようだった。
「これ、手に取っても?」
「いいぜ。ただし重いぞ」
持ち上げると、想像よりずっしりとした重みがあった。遼は平らな場所に置き直し、ハンドルを軽く回そうとする。びくともしない。
「動かねえだろ。昨日、陸側の崩れた倉から出たんだと。使い道も分からんし、鉄屑にするつもりだった」
「いや、使い道はあります。たぶん荷物を巻き上げる道具です」
「荷物を? これでか?」
男が意外そうに目を丸くした。遼はそこで口を閉じる。つい普段の調子で話してしまった。あまり古い機械に詳しいところを見せるのも、考えものだ。
「似たような仕組みを見たことがあるので。動けば、ですが」
改めてハンドルの根元を見た。軸周りの汚れと錆がひどい。固着しているだけなら手はある。内部の歯が欠けていれば厄介だし、見えない場所が腐食している可能性もある。工具も部品も足りない今、直せる保証などなかった。
なのに、どうしても気になる。
「これ、いくらですか?」
男の示した値段に、遼は顔をしかめた。鉄屑にするつもりだったという割には、なかなかの金額だ。
「壊れてるんですよね?」
「だから安くしてるんだろ」
「さっき、使い道も分からないって言ってませんでした?」
「分からんものほど値が付くこともある」
「都合がいいなあ」
思わず苦笑すると、男もにやりと笑った。何度かやり取りをして、どうにか値段を下げてもらう。それでも安い買い物ではない。
遼は財布代わりの袋を握り直した。宿代、食費、今後の生活。頭の中で計算すると、見送る理由はいくらでも浮かぶ。
それでも、もう一度ウインチに目が戻った。
動かない理由を確かめたい。中を開けて、どの歯車がどう噛み合っているのか見たい。できれば、もう一度ハンドルを回してみたい。
「うーん。…買います」
「毎度あり。で、こんなもの、どうするんだ?」
「直せるか試してみようと思いまして」
「直す?あんたが?」
「あー、まぁちょっと経験がありまして」
男は怪訝そうな顔をしたが、金を受け取るとそれ以上は聞かなかった。代わりに丈夫な縄を一本つけてくれた。遼が礼を言うと、「落として足を潰されても困るからな」と笑った。
機械を抱えて宿へ戻る道は、来たときよりずっと長く感じた。小型とはいえ、鉄の塊である。途中で何度も持ち替え、ようやく宿の戸口にたどり着く。
「おや、朝から何を買ってきたんだい?」
宿の女が目を丸くした。
「ちょっと、直せるか試したくて」
「部屋を油まみれにするのは勘弁しておくれよ」
「すみません。汚さないようにします」
「裏に空き小屋があるから、そっちを使いな。物を壊さないなら構わないよ」
ありがたい申し出だった。案内された小屋には古い棚と作業台代わりになりそうな丈夫な机がある。遼は荷物を下ろし、村から持ってきた工具袋を開いた。
布を敷き、機械を置く。まずは外側の汚れを落とし、固定部分を調べる。ハンドルには不用意に力をかけない。無理に回せば、残っている部品まで壊しかねない。
使えそうな工具を選んでいると、自然に頬が緩んだ。
昨日は、これからどう生きていけばいいのかも分からなかった。今だって分からないことだらけだ。けれど、目の前の機械についてなら、何をすればいいか考えられる。
「さて。どこが悪いんだ、お前は」
遼はウインチを覗き込み、最初の留め具に工具を当てた。
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