11_9話 水都
山道を歩き始めて、どれほど経っただろうか。
遼は額の汗を拭い、背負った荷物を持ち直した。集落を出てから三日。途中の町で食料を買い足し、教えられた道を南へ進んできた。昨日からは登り坂が続き、足の疲れもかなり溜まっている。
「もう少しだと思うんだけどな」
独り言を漏らし、木々の間から空を見上げる。朝から歩き続けて、太陽はすでに頭上を越えていた。山道は細く、ところどころ岩が露出している。雨で削られたらしい深い溝もあり、気を抜くと足を取られそうだった。それでも、引き返すつもりはなかった。
昨日立ち寄った茶屋の主人によれば、この峠を越えれば海が見えるという。そこから水都までは、そう遠くないらしい。
海の中に街があるという、不思議な場所。旅商人からその話を聞いて以来、遼の頭から離れなくなっていた。海に沈んだ建物があり、水面から巨大な構造物が突き出している。その間を魚が泳ぎ、人々が舟を浮かべて暮らしているという。
もし、それが神戸だったら。
考えるたびに胸の奥が重くなったが、その一方で、どこかに希望も残っていた。
神戸のすべてが沈んだとは限らない。山側の住宅地なら無事かもしれないし、海から離れた場所には昔の建物が残っているかもしれない。自分の家だって、まだどこかに残っているのではないか。
「いや、さすがに無理か」
口に出してから、遼は苦笑した。
村で過ごした数か月、森に呑まれた高速道路、誰も知らない昔の地名。これまで見てきたものを考えれば、そんな期待が現実的でないことくらい分かっている。
それでも、実際に確かめたわけではないのだ。ひょっとしたら何かが残っているかもしれない。そう考えては打ち消すことを、遼は何度も繰り返していた。
首を振って余計な考えを追い払い、再び歩き出す。
◇
しばらく登ると、木々の間を吹き抜ける風が変わった。それまでの湿った土や草の匂いに、かすかに別の匂いが混じっている。遼は足を止め、鼻をひくつかせた。
「潮の匂いか?」
もう一度、風を吸い込む。間違いない。海の匂いだった。懐かしさに、思わず顔が緩んだ。
神戸に住んでいた頃、海は特別な場所ではなかった。少し出かければ港があり、休日には海沿いを歩くこともあった。潮の匂いなんて、気にも留めていなかった。
それが今は、たったこれだけのことで嬉しくなる。
「本当に近いんだな」
遼は少し歩調を速めた。
道は尾根に沿って続き、やがて傾斜が緩やかになった。木々の隙間から差し込む光が増え、空が広がっていく。前方に開けた場所が見えた。どうやら峠の頂上らしい。遼は最後の坂を登り切り、そこで足を止めた。
「うわ……」
目の前に、どこまでも青い海が広がっていた。
午後の日差しを受けた水面は無数の光を散らし、遠くの水平線では空と海の境目がぼやけている。山の緑と海の青が鮮やかな対比を描き、吹き抜ける風が心地よかった。
だが、遼を驚かせたのは海の美しさだけではなかった。
海の中に街があった。
水面からは巨大な建物がいくつも突き出していた。角ばった灰色の構造物に、窓の抜け落ちた高層建築。海上に孤立するように残った塔の周囲には、建物の屋上らしき平らな部分が顔を出している。
澄んだ水の下には、さらに多くの建造物が沈んでいた。まっすぐに伸びる道路が見え、その両側には四角い建物が並んでいる。
かつて街路だった場所を、今は海水が満たしていた。
ところどころに残る高架道路は、橋脚だけを水面に突き出し、その先で途切れている。大きく傾いた建物もあれば、崩れた屋根に草木が茂っているものもあった。
建造物の多くは崩壊していたが、それでも都市の輪郭は残っていた。
遼は言葉を失ったまま、眼下の景色を見つめた。
崩れた建物の間を、小さな帆船がゆっくりと進んでいる。浅瀬では、海底に残る構造物の上を魚の群れが泳ぎ、陽光を受けた鱗がきらきらと光っていた。
水面から突き出した建物の屋上には緑が茂り、白い鳥が何羽も羽を休めている。
海と空、そしてかつての街。人が造ったものと、自然が長い時間をかけて作り変えたものが、不思議なほど美しく溶け合っていた。
「すごいな、これ」
遼はゆっくりと歩き、崖際の開けた場所まで進んだ。
風が頬を撫で、潮の匂いが先ほどよりも強くなる。
「こんな景色、見たことないぞ」
旅商人が言っていたことを思い出した。晴れた日には、遠くからわざわざ見物に来る者もいるのだという。確かに、これなら金を払ってでも見に来たくなるだろう。
遼はしばらく、夢中になって景色を眺めていた。
透明な青い海の中に沈む巨大な都市は、太陽の光を受けて静かに輝いていた。風が水面を揺らすたび、海底の建物が光の模様に包まれ、まるで海そのものが街を飾っているようだった。
本当に、美しかった。
そして、ふと遼の視線が止まった。
「あれ?」
海の向こうに見える山並み。その稜線に、妙な見覚えがあった。
遼は目を細める。
右手に続く山の連なりと、海へ向かって落ち込む斜面。いくつもの峰が重なる独特の輪郭は、記憶にある景色とよく似ていた。
「六甲山か?」
思わず呟いた。
振り返って自分が越えてきた山を確かめ、もう一度海を見る。山並みの位置、海岸線の向き、遠くに残る大きな構造物。それらが記憶の中の神戸と少しずつ重なり始めた。海の形は随分変わっている。かつて埋立地があった辺りは広く水に覆われ、陸地だったはずの場所にまで海が入り込んでいた。
それでも、山と海の位置関係には見覚えがある。
遼は足元の岩に手をつき、身を乗り出した。
眼下に沈む街には、幅の広い道路や途中で途切れた高架が見える。沖合に残る巨大な人工構造物も、記憶の中の港湾施設と位置が重なっていた。
細かな地形は変わっていても、街全体の位置関係までは見間違えようがなかった。
知っている。
この場所を、確かに知っている。
「……嘘だろ」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
さっきまで美しいと眺めていた海。その青い水の下に、自分の知る街が沈んでいた。
神戸だ。
間違いない。ここは、神戸だった。
◇
遼はその場に立ち尽くしていた。
目の前の景色は何も変わっていない。相変わらず海は青く、太陽は水面を照らしている。
さっきまで感動していた景色のはずなのに、今はうまく息ができなかった。
「ここが、神戸?」
口にしてみると、耳に馴染んだはずの地名が、ひどく遠いものに感じられた。
遼は慌てて周囲を見渡した。何か一つでも、知っているものが残っていないだろうか。駅はどこにあっただろう。港はどの辺りだったか。あの大きな道路は、どこを走っていたのか。
そして、自分の家は。
視線を右へ左へと動かしてみるが、見覚えのある建物は見つからない。高層建築の上部がいくつも残っているものの、窓も外壁も大半が失われている。崩れた構造物の上に土が積もり、そこから木々が育っている場所さえあった。建物の形が変わり、道路が消え、海岸線まで変わってしまった街は、遼の知る神戸とはあまりにも違っていた。
「いや、でも、山側なら」
山側の住宅地なら、まだ残っているかもしれない。遼は海から視線を外し、山の斜面へ目を向けた。
そこには深い緑が広がっていた。かつて家々が密集していたはずの斜面は森に覆われ、ところどころに石垣や古い構造物が覗いている。新しく造られたらしい小さな集落も見えたが、当然ながら自分の知る住宅街ではなかった。
「そりゃ、そうだよな」
遼は小さく笑おうとしたが、うまくいかなかった。
何百年も経っているのだ。木造の家が残っているはずもなく、鉄筋コンクリートの建物だって、手入れもされずにそんな長い時間を耐えられるとは限らない。
そんなことは、ずっと前から分かっていた。
地下施設で目覚めたときも、誰も知らない時代の話を聞いたときも、森に呑まれた高速道路を見たときも、自分の知る世界がもうないことくらい理解していたはずだった。
それなのに、心のどこかで期待し続けていた。
「何か、残ってると思ったんだけどな」
声が震えた。
家が残っていなくても、近所の道くらいは分かるかもしれない。いつも利用していた駅の跡なら、見つけられるかもしれない。
通い慣れた店や、何度も歩いた通り。そんなものが一つでも残っていれば、昔の自分ともう一度つながれるような気がしていた。
けれど、目の前にあるのは青い海だった。
かつて道路が走り、建物が並び、人々が行き交っていた場所は、今ではすっかり海の底に沈んでいる。
遼は力が抜けたように、その場に座り込んだ。
背負っていた荷物が地面に落ち、工具のぶつかる音がした。いつもなら気になる音だったが、今は拾い上げる気にもなれなかった。
ただ、目の前の海を見つめる。
風が草を揺らし、遠くから波の音が聞こえてくる。鳥の声も聞こえた。こんなにも穏やかな場所なのに、胸の奥では何かが音を立てて崩れていくようだった。
「なんでだよ」
何に対して言ったのか、自分でも分からなかった。
戦争が起きたことか。街が沈んでしまったことか。それとも、自分だけがこんな時代まで生き残ってしまったことなのか。
あるいは、故郷が沈んだ光景を見て、美しいと感動してしまったことかもしれない。
遼は両手で顔を覆った。
◇
しばらく、何も考えられなかった。
ただ座っていると、不意に昔のことが浮かんできた。
朝、家を出るときの玄関。靴を履きながら忘れ物がないか鞄の中を確かめ、慌てて家を飛び出したことが何度もあった。
仕事帰りにはよく同じ店に立ち寄った。疲れている日は夕飯を作るのも面倒で、適当なものを買って帰った。
休日には工具を並べて、壊れた機械をいじっていた。母親から、また変なものを拾ってきたのかと呆れられたこともある。
思い浮かぶのは、そんな何でもない日々のことばかりだった。
特別な思い出などではない。当時は、明日も同じような日が来ると信じていた。
仕事へ行って、帰ってきて、飯を食べて寝る。たまには友人と出かけ、家族と言い合いをすることもある。
そんな毎日が、ずっと続くものだと思っていた。
戦争が始まってからも、どこかで同じことを考えていた。徴兵され、後方の整備施設で働くようになってからも、いつか戦争が終われば家へ帰れると信じていた。
以前と同じ暮らしには戻れなくても、少なくとも帰る場所はあるはずだった。
だから、地下施設で冷凍睡眠装置に入ることになったときも、目が覚めれば助けが来ていると思っていた。
数日か、長くても数週間。戦況が落ち着けば、誰かが迎えに来てくれる。
そのはずだった。
「帰りたかったな」
ぽつりと呟いた。
あの家へ、あの街へ、何でもないいつもの毎日へ帰りたかった。
遼は唇を噛んだ。
目の奥が熱くなり、慌てて袖で拭ったが、すぐに次の涙が頬を伝った。
「くそっ」
声がうまく出なかった。
何度拭っても、涙が止まらない。
村で暮らしている間も、何度か泣きそうになったことはあった。自分の知る時代が終わっていると聞いた夜も、家族のことを思い出したときも、誰も自分を知らない世界でひとり取り残されたのだと考えたときも。
それでも、どこかで踏みとどまっていた。
まだ故郷を見ていない。まだ何も確かめていない。そうやって自分に言い聞かせれば、どうにか気持ちを保つことができた。
だが、もう駄目だった。
目の前には、答えが広がっている。
神戸は確かにそこにあった。けれど、自分が帰りたかった神戸は、もうどこにもない。
堪えようとするほど、胸の奥から何かがこみ上げてきた。
遼は膝を抱え、顔を伏せた。
涙が地面に落ちる。声を殺そうとしても嗚咽が漏れ、肩が震えた。
もう誰にも会えない。
家族にも、友人にも、職場の仲間にも。
何気なく別れたあの日が、最後だったのだ。
もう一度会えると思っていた。帰ったら話そうと思っていたこともあった。それなのに、そんな機会は二度と訪れない。
「帰りたい……」
子供みたいな言葉だった。
けれど、それ以外に何も出てこなかった。
「帰りたいよ……」
誰に聞かせるでもなく、何度も繰り返した。
泣いたところで何も変わらない。そんなことは分かっているのに、どうしても止められなかった。
遼は誰もいない山の上で、声を上げて泣いた。
その間も、風は穏やかに吹き続けていた。
草が揺れ、遠くの海では白い波が立っている。水面から顔を出した古い建物には、変わらず陽光が降り注いでいた。
涙で滲んだ視界の向こうで、水都は輝いていた。
美しかった。
こんなにも美しいのに。
そこにあるのは、自分が失ったものばかりだった。
◇
どれほど時間が経ったのだろう。
気がつくと、太陽がずいぶん西へ傾いていた。
遼はぼんやりと顔を上げた。目が痛く、鼻も詰まっている。袖で顔を拭うと、乾いた涙の跡が少しひりついた。
「ひどい顔してるだろうな」
誰に見せるわけでもないのに、そんなことが気になった。
大きく息を吐くと、少しだけ呼吸が楽になった。胸の奥はまだ痛み、何か大切なものが抜け落ちたような感覚も残っている。
それでも、いつまでも顔を伏せているわけにはいかなかった。
遼はゆっくりと顔を上げ、眼下に広がる水都を眺めた。
夕方の光を受けて、海の色が変わり始めていた。昼間は透き通った青だった水面が、今は柔らかな金色に染まっている。
建物の影が長く伸び、その間を進む小舟が細い航跡を残していた。
遠くの陸地には木造の家々が集まり、海岸沿いには小さな港があった。何隻もの船が停泊し、その周囲では人々が忙しそうに働いている。
漁から戻ってきたのだろうか。何人かが集まって荷物を運び、別の船では帆を畳んでいた。
こんなに離れた場所からでも、人々がそこで暮らしていることが分かった。
「人が、住んでるんだな」
当たり前のことだった。
旅商人も、水都では魚が獲れ、古い道具が売られていると言っていた。
それでも、実際に人々の姿を見ると、不思議な気持ちになった。
遼の知る神戸は失われた。けれど、その場所には今も人が住んでいる。
舟を出し、魚を獲り、荷物を運び、家へ帰る。そこには、自分の知らない日常があった。
自分が眠っている間に生まれた、新しい日常だった。
ふと、冬馬の顔が浮かんだ。
鼻の頭を擦りながら走り回っていた、あの少年。水車を直したときには誰よりも喜び、別れ際には下手くそな水車の絵を描いた木札までくれた。
遼は工具袋に手を伸ばした。紐で結びつけた木札が風に揺れている。指で触れると、ざらついた木の感触があった。
「あいつ、元気にしてるかな」
きっと今頃も、村の中を走り回っているのだろう。弥平に叱られているかもしれないし、また何か余計なことをして騒ぎになっているかもしれない。源蔵は相変わらず村の仕事に追われ、村人たちは畑を耕し、水車で麦を挽いている。遼がいなくなった後も、村の暮らしは続いているはずだった。
ここも同じなのだろう。
かつての神戸を知らない人々が、この海で生まれ、育ち、暮らしている。
彼らにとって、水都は失われた街ではない。生まれたときから、ずっとそこにある景色なのだ。
遼はもう一度、海を眺めた。
昼間、この景色を初めて見たとき、自分は素直に美しいと思った。
その気持ちは、今も変わっていなかった。
神戸が沈んでいると知ったからといって、景色そのものが変わったわけではない。青い海も、陽光に照らされた建物も、静かに行き交う舟も、やはり美しかった。
「綺麗だな」
今度は少しだけ声が震えたが、遼は目を逸らさなかった。
悲しいし、悔しい。納得なんて、できるはずがない。
どうしてこんなことになったのか、何が起きたのか、まだ分からないことばかりだった。
できることなら、今すぐ元の世界へ帰りたい。家族にも会いたい。
そんな気持ちが、簡単になくなるはずもなかった。
けれど、もう自分の知る世界がどこかに残っていると期待し続けるのは、やめようと思った。
この海の下に、自分の故郷がある。
そこに帰ることは、もうできない。
その事実だけは、受け入れなければならなかった。
遼は目を閉じた。潮の匂いを含んだ風が頬を撫で、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
しばらくして目を開けると、夕日に染まった水都がそこにあった。
遼は立ち上がり、地面に置いた荷物を拾った。疲れた足に、ずっしりと重さがかかる。
「さて、と」
いつものように声を出してみたものの、これからどうすればいいのかは分からなかった。
何を目指して生きていけばいいのか。どこへ行けばいいのか。
まだ、何も決まっていない。
ただ、ここで座り続けていても仕方がないことだけは分かっていた。
遼は荷物を背負い直した。工具袋に結んだ木札が小さく揺れる。
もう一度、水都を振り返る。
海の向こうに沈む故郷。その上に広がる、美しい夕焼け。
遼はしばらく、その景色を見つめていた。
忘れないように。
今度こそ、目に焼きつけるように。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
顔を上げると、遼は山を下り始めた。
足元には、海へ続く細い道が伸びている。その先には、知らない人々の暮らす町があり、自分が生まれた時代とは違う世界が広がっている。
もう帰ることのできない故郷を背に、遼は一歩ずつ坂道を下っていった。
背後では、夕日に照らされた水都が、いつまでも静かに輝いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回で第1章は完結となります。
ようやく自分の知っていた世界の現実と向き合った遼ですが、彼の旅はまだ始まったばかりです。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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