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第9章 長老会

水無月四日の夜、雨。アッカは下の谷の長老会の家で、雨漏りを受ける桶の前に座っていた。


長老会の家は、窪地のいちばん底にある。屋根は古く、雨の夜にはいつも同じ所が漏る。桶は、そのためにいつも同じ所に置いてある。誰も屋根を直さない。直すと、桶の置き場がなくなる、と長老が言うからだ。


ぽたり、と水が落ちた。桶の水の面に、輪が一つ広がった。


家の中には、谷の者が二十人ほど集まっていた。灰狼、蜥蜴人、土竜人。奥の席に、種族ごとの年寄りが座っている。灰狼の長老は、鼻面の白い老女だった。


トゥルは、若い者たちの列の端にいた。アッカは、母親たちの列にいた。息子とのあいだに、人が五人座っていた。


*


隊の知らせは、夕方のうちに届いていた。


館にいた亜人、灰色一名、鴉一名を、北の門から出す。灰色の誰を出すかは、谷が決めて、明日の昼までに申し出よ。


「人間には、わしらの見分けがつかん」と長老は言った。「だから、谷が決めろ、だとさ。ありがたいことじゃな」


誰も笑わなかった。長老も、笑わせるつもりで言ったのではなかった。


「鴉の分は、どうする」と、土竜人の年寄りが訊いた。


「鴉は、もう北にいる」と長老は言った。「足が速い」


今度は、何人かが笑った。笑ってよいところが一つあって、皆それにすがった。


*


「北へ行く者を、決める」と長老は言った。


若い者。身軽な者。家族を持たない者。長老は、ひとつずつ数え上げるように言った。北で番をするには、若い体が要る。家族を持つ者は、谷に残る。残る者がいるから、谷は谷でいられる。


アッカはそれを、昔から知っていた。夫の弟が北へ上ったときも、同じことが言われたはずだった。


「灰色の件だ」と蜥蜴人の年寄りが言った。「灰色で決めればいい。わしらの若いのは、文箱に触っていない」


「触っていないのは、灰色の若いのも同じだ」と土竜人の年寄りが言った。「シャスが裁きの席でそう言った。帳面に載ったそうだ」


「載ったのは、灰色のほうの話だけだろう」


年寄りたちは、しばらく小さな声で言い合った。言い合いは、どこにも着かなかった。着く場所は、初めから一つしかなかった。


「北へ行く者は、北の村で砦の者に渡される」と土竜人の年寄りが言った。「組合の年寄りが、村まで連れていくそうだ。死にに行くのではない」


「死にに行くのではない」と長老は繰り返した。「番をしに行くのだ。昔から、谷の者がしてきたように」


灰狼の若い者が二人、互いの顔を見た。片方が口を開きかけて、閉じた。トゥルの耳の先が、灯の明かりで白く光った。


「行く」とトゥルが言った。


声は大きくなかった。だが、雨の音より先に、皆の耳に届いた。


長老は、トゥルを見た。長いこと見ていた。それから、母親たちの列のアッカを見た。


アッカは、黙っていた。


止めることはできた。長老会では、母親が口を出してもよい。息子はまだ若い、と言えばよい。ほかの若い者もいる、と言えばよい。


アッカは、言わなかった。


息子があの紙に関わったことを、アッカは知っている。知っていて、訊かなかった。息子が行くと言ったのは、たぶん、あの紙に関わったからだ。関わった者が行くのが、筋だと思ったのだ。息子は、そういう子だった。


止めれば、別の誰かが行く。その誰かの母親が、ここに座っている。


*


「トゥル」と長老は言った。「北で、名を名乗れ。向こうでは、名で呼ばれる」


「知ってる」とトゥルは言った。


長老は目を細めた。それ以上は、訊かなかった。


それから長老は、低い声で歌いはじめた。谷の古い歌だった。子どものころ、アッカも母から聞いた。歌の意味を、誰も説明しなかった。説明する者は、昔からいなかった。


『名のない手が石を積んだ 三つの手が門を閉めた 壁の内に子を置いて 壁の外に火を焚いた』


長老は、そこで歌をやめた。続きがあることを、アッカは知っていた。長老は続きを歌わなかった。


歌のあとは、静かだった。雨が屋根を叩き、桶に水が落ちた。誰も、口を開かなかった。


壁の内に子を置いて。アッカは、その一節を口の中で繰り返した。壁を積んだのは、わしらの祖だ、と谷の年寄りは言う。人間の歌には、わしらは出てこない。それでも壁は、わしらの祖が積んだ。だから谷は、壁の内にある。


*


もう一つの知らせを、長老は最後に告げた。


「ザイデルの旦那様が、裁き役の前で、谷の証文を改めないと約したそうだ」


家の中に、小さな息が広がった。安堵の息だった。谷は、谷のままでいられる。


アッカも、息を吐いた。吐いてから、気づいた。


証文の裏に綴じてあった、もう一枚。あの紙は、いま北にある。鴉がくわえて、飛んでいった。人間はそれを、何の書類とも言わなかった。言わないまま、証文だけが残った。


谷は守られた。守ったのは、鴉が北へ運んだ紙が、ここにないことだった。息子の鼻が、その在りかを教えた。


アッカは、息子のほうを見なかった。見れば、何か言ってしまいそうだった。


長老会が散ると、若い者たちは雨の中へ出ていった。トゥルも出ていった。アッカは、桶の前に最後まで残った。


ぽたり、と水が落ちた。


息子は、母のいる側ではないほうへ行く。アッカはそれを、知っていて、止めなかった。


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