第10章 柱の釘
水無月五日の夕方、雨は上がっていた。トゥルは下町の路地を抜けて、冒険者組合の裏口の前に立った。
表に回れば、酒場がある。錆び釘亭という名の店だ。谷の者が表から入ることは、まずない。裏口なら、誰も気にしない。長老は、裏口を叩けと言った。
下町の石畳には、水たまりがいくつも残っていた。夕方の空が映って、水たまりだけが明るい。荷車の輪が一つ通るたびに、空が割れて、また元に戻った。
トゥルは戸を叩いた。
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出てきたのは、人間の老人だった。背は曲がっていたが、肩の骨が太い。昔は重いものを担いだ肩だ。鉄と、古い革と、麦酒の匂いがした。
「谷の長老の使いか」
「北へ行く者だ。トゥル」
老人はトゥルの顔を見た。見分けようとして、見分けられないのが分かる見方だった。それでも老人は、名を聞いて、うなずいた。
「わしが、北の村まで連れていく。明日の朝六つ、北門だ。村から先は、砦の者が迎えに来る」
「砦の者は、来るのか」
「来る。昔から、そうなっとる。わしの爺さんのころから」
老人は戸を大きく開けた。裏口の向こうは台所で、その先に酒場が見えた。夕方の、まだ客の少ない刻だった。
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酒場のカウンターの奥に、太い柱が一本立っていた。
その柱の、人の目の高さより上に、錆びた大釘が三本、交差して打ちこんであった。酒樽の陰で、ほとんど見えない。カウンターの向こうで、酒場番が杯を拭いていた。釘の真下だった。
トゥルの鼻に、鉄の錆の匂いが届いた。古い錆だった。それから、ほんの少し、煤の匂い。
谷の井戸で嗅いだ蝋の欠片と、同じ種類の匂いだった。篝火の煤。
「あれは」とトゥルは言った。
「あれか」老人は柱を振り返った。「砦の門から抜いてきた釘だそうだ。わしの爺さんが言っていた。爺さんの、爺さんの代に、兵が南へ下るとき、門から抜いて持ってきたんだと」
「門には、穴が残っているのか」
「行けば分かる」と老人は言った。
トゥルは、もう一度釘を見た。三本。錆の色が、少しずつ違った。一本だけ、ほかより黒かった。
*
老人は、北への道を話した。
北門を出て、北街道を行く。赤い棘草の荒れ野がある。実が毛に絡むから、尻尾を巻いて歩け。一里塚を八つ数えると、羊の村に着く。羊の村は、砦に麦を送る村だ。村から峠道を二日登る。峠の手前の、岩の肩に、砦がある。峠を向いた見張り台で、夜ごと篝火を焚いている。村からは見えん。
「峠道の最後の曲がりで、火が見える。見えたら、もうすぐだ」
「火は、何のために焚く」
「わしは知らん。行けば分かる」
「あんたは、どうして北の道を知っている」とトゥルは訊いた。
「この組合は、砦の兵の生き残りが作った」と老人は言った。「わしの家も、そうだ。だから、ここでは誰も仲間に嘘をつかん。この建物の中ではな。砦の壁の内の決まりだったそうだ。壁の内で仲間に偽れば、人が死ぬ」
「外では」
「外では、つく者もおる」老人は肩をすくめた。「わしは、つかん。年をとると、嘘を覚えておくのが面倒になる」
トゥルは、少し笑った。北へ行くと決めてから、初めて笑った。
老人の答えは、どれも同じところで止まった。知っていることは話し、知らないことは知らないと言った。人間なのに、谷の年寄りと同じ話し方をする、とトゥルは思った。
裏口の油の匂いが、夕方の湿った空気の中で濃くなっていた。台所の竈で、何かが揚がっている。油が跳ねる小さな音が、続いていた。
*
酒場番が、カウンターの向こうから出てきた。手に、湯気の立つ椀を持っていた。豆のスープだった。
「裏口のお客さんにも、一杯」
「明日の朝が早い」と老人が止めた。
「飲む」とトゥルは言った。
酒場番は、黙って椀を差し出した。トゥルは受け取った。椀は熱かった。豆の匂いが、谷の家の匂いに少し似ていた。母の豆より、塩が多い。
トゥルは、裏口の敷居に腰を下ろして、スープを飲んだ。老人は、それを待った。急がせなかった。
飲み終えて、椀を返した。酒場番は椀を受け取ると、カウンターの奥に戻り、また杯を拭きはじめた。柱の釘の、真下で。
「ありがとう」とトゥルは言った。
酒場番は、手を一度上げただけだった。
*
帰り道、下町の水たまりに、星が一つ映っていた。雨のあとの空は、低いところから晴れていく。
トゥルは、釘の数を思い出した。三つ。
三、六、群れ、とクラクは数えた。三つでは、群れには足りない、とクラクなら言うだろう、とトゥルは思った。
北には、穴が三つあるのだろうか。釘のない穴が。
行けば分かる。トゥルは、その言葉を口の中で一度だけ転がして、谷への坂を下りた。




