第8章 証言
水無月四日、雨。昼の鐘の少し前、ゲオルクは参事会館一階の裁き方の間で、裁きの帳面の新しい頁を開いた。
雨は朝から降りつづいていた。高い窓の外で、雨垂れが石の縁を叩いている。一つ、二つ、三つ。ゲオルクは数えるのをやめた。数えても、裁きは早くならない。
裁き方の間は、細長い部屋だった。正面の高い席に、裁き役コンラート。その脇の低い机に、ゲオルク。向かい合わせに、訴える側と、呼ばれた側の長椅子がある。
訴える側には、当主マクシミリアン・ザイデルと、鍵番のルッツ。
呼ばれた側には、灰狼の若者と、蜥蜴人の荷運びが一人。
戸口の近くの椅子に、白い法衣の修道女が一人、背筋を伸ばして座っていた。胸に灯火の刺繍がある。濡れた法衣の裾から、雨と、大聖堂の蝋燭の匂いがした。
*
「名は」とゲオルクは訊いた。灰狼の若者にだ。
払いの帳面には名がある。だが、帳面の名と、目の前の灰狼が同じかどうかは、ゲオルクには見分けられない。だから訊いた。名を書くために訊くのは、書記の仕事のうちだった。
「トゥル」
若者は短く答えた。ゲオルクは帳面に『トゥル』と書いた。字の終わりが、いつものように小さく跳ねた。
この席で、灰狼の名が口に出たのは、たぶんこれが最初だった。当主もルッツも、それに気づいた様子はなかった。
「始める」とコンラートが言った。
*
鍵番のルッツが、昨日と同じことを言った。
倉にいた灰色が、文箱から紙を抱えて、裏門から出ていくのを、台所の戸口から見た。ひと口の汁を飲んでいた。首を伸ばした。
昨日より、言い訳が少し短くなっていた。一晩のうちに、削ったのだろう。ゲオルクは、言われたとおりに書いた。
「見たことだけを申します」と、修道女が言った。
名はヘドヴィヒ。夕べの祈りへ向かう途中で、ザイデル館の裏門の前を通ったという。
「夕方五つ半の鐘の、すぐあとでした。裏門から、灰色の若い方が一人、出てこられました。手には何も持っておられませんでした。両の手とも、空でした」
ルッツの鍵束が、小さく鳴った。
「それから、屋根の上から鴉が一羽、北へ飛びました。紙を一枚、くわえておりました。紙が何だったかは、存じません。わたくしは、見たことしか申せません」
ゲオルクは書いた。灯の前の誓願を立てた者は、偽りを言わない。人間でも、それは亜人と同じだった。
*
次に、蜥蜴人の荷運びが呼ばれた。シャスという名が、払いの帳面にあった。
シャスは長椅子から立ち上がり、首を少し傾けた。
「寒い」とシャスは言った。「火鉢の前に移っても、いいか」
コンラートが、少し間を置いた。
「書いておけ」とコンラートはゲオルクに言った。「火鉢」
ゲオルクは書かなかった。シャスは火鉢の前に移った。
「文箱の前にいた熱は、すり減ったかかとの人の形でした」とシャスは言った。「その人は、台所の竈の前から戻ってきました。それまで、文箱の前には、誰の熱もなかった。灰色の若いのは、文箱に触っていません。鼻を近づけただけです」
ゲオルクは、すり減ったかかと、と書きかけた。
「前の半分は、書くな」とコンラートが言った。
ゲオルクの筆が止まった。
「蜥蜴人の言葉は、人を裁く帳面に載せない。灰色が触っていない、のほうは書いておけ」
ゲオルクは、書きかけた字の上に線を一本引いた。線の下の字は、まだ読めた。帳面はそれでいい。帳面は控えだ。正本には写さない。
当主の指輪が、一回りした。ルッツは床を見ていた。かかとのすり減った靴で、床を見ていた。
*
最後に、灰狼の若者が立った。立ったまま、何も言わなかった。訊かれるのを待っていた。
「何をした」とコンラートが訊いた。
「匂いを嗅いだ」とトゥルは言った。
「紙を取ったか」
「取っていない」
部屋の中が、少しだけ静かになった。雨の音が、急に大きくなった気がした。
何の匂いを。誰のために。ゲオルクの頭に、その問いが浮かんだ。たぶん、部屋の誰の頭にも浮かんだ。灰狼は偽りを言えない。訊けば、答える。
ゲオルクの筆が、紙の上で止まった。
「この席で訊くのは」とコンラートが言った。声は低かった。誰に言ったのでもなく、部屋に言った。「そこにいたかどうか、だけだ」
誰も、何の紙かを訊かなかった。誰も、なぜ、を訊かなかった。
当主は指輪を回しつづけた。回しながら、何も言わなかった。訊けば、答えが返ってくる。返ってきた答えは、帳面に載る。当主は、それを望んでいなかった。ゲオルクにはそう見えた。
*
コンラートは、しばらく窓の雨を見ていた。それから言った。
「人の申すことだけで、亜人の種は定めない。偽りを言えぬ者が、見たことで定める」
ゲオルクは書いた。一字ずつ、ゆっくりと。それが、今日の裁きでいちばん長く残る一行になる、と分かっていた。
「館の書類のことは、この席では裁かない」とコンラートは言った。「何の書類か、申し出がないからだ」
当主は答えなかった。
「館にいた亜人は、灰色一名、鴉一名」とコンラートは続けた。「北の門から出す。灰色の誰を出すかは、谷が決めて、明日の昼までに申し出よ。人間には、灰色の見分けがつかんのでな」
ルッツが顔を上げた。自分の名が出なかったことに、ほっとした顔だった。ゲオルクは、その顔を見なかったことにした。
「ザイデル殿」とコンラートは当主に向き直った。「谷の証文は、改めないな」
当主の指輪が止まった。
しばらくして、当主は言った。「改めません」
ゲオルクは書いた。何の書類かを訊かないかわりに、裁き役は一つだけ約束を取った。帳面には、約束のほうだけが載る。
「裁きは明日、言い渡す」
コンラートは立ち上がった。
当主もルッツも、修道女も、灰狼も蜥蜴人も、それぞれの戸口から出ていった。濡れた法衣の匂いが、少しのあいだ部屋に残った。
ゲオルクは帳面を閉じる前に、もう一度、頁を見た。線を引いた字が、一行。線の下で、すり減ったかかと、と読めた。
床に、汗が一滴落ちていた。ルッツの座っていたあたりだった。ゲオルクは、それは書かなかった。




