第7章 訊かない夜
水無月三日の夜、アッカは下の谷の家の戸口で、隊の灯が坂を下りてくるのを見ていた。
灯は三つだった。人間が谷へ下りてくるのは、めったにない。用がなければ、人間は下りない。用があるときは、灯を持って、何人かで下りてくる。
噂は、昼のうちに洗濯場まで来ていた。
旦那様の大事な書類が、虫干しのあとで失くなったらしい。鍵番が、灰色が持ち出したと言ったらしい。裁き役が来て、客間で話をしたらしい。人間の使用人たちが、洗濯場の戸口で口々に言い合い、洗濯女たちは黙って布を揉んだ。
「灰色だってさ」と、人間の下働きの娘が、アッカの桶の前で言った。アッカに言ったのではない。アッカの頭の上を通り越して、向こうの誰かに言ったのだ。
土竜人の婆さんは、何も言わなかった。指で布の汚れを探しつづけていた。帰りぎわに一度だけ、アッカの手の甲を、濡れた指で軽く叩いた。それが何の合図なのか、アッカには分からなかった。
夕方、谷へ戻ると、トゥルはもう家にいた。藁の寝床で、天井の梁を見ていた。
窪地の底の家々で、戸が少しずつ開いた。開いた戸の隙間から、灰狼や蜥蜴人や土竜人の目が、灯のほうを見ていた。誰も外へは出なかった。
隊の男が、帳面を広げた。灯の下で、字を指でたどる。
「トゥル。昨日ザイデル館の倉で、荷を運んだ灰色。出てこい」
アッカの後ろで、息子が立ち上がる気配がした。
*
トゥルは戸口を出て、灯の前に立った。
隊の男は、トゥルを見た。それから、戸口に立っているアッカを見た。もう一度、トゥルを見た。
「どっちだ」
隊の男は、本気で困っていた。灰狼の母と息子は、人間の目には同じに見えるらしい。耳の先の白さも、肩の高さも、匂いも違うのに。
「どっちも灰色だよ」と、アッカの足元からミルが言った。
隊の男は咳払いをした。トゥルが「俺だ」と言った。男は帳面に指を置いたまま、うなずいた。
「明日、裁きの席へ来い。昼の鐘の前に、参事会館の一階だ」
「分かった」
それだけだった。隊の男たちは灯を持って、坂を上っていった。窪地の家々の戸が、一つずつ閉じた。
*
トゥルは家に入ると、何も言わずに藁の寝床へ座った。
アッカも、何も言わなかった。豆の鍋を火から下ろし、三つの椀に分けた。ミルは自分の椀を抱えて、兄の隣に座った。
谷の夜は、水の音がする。窪地の底を、細い流れが一本通っている。昼は人の声で聞こえない。夜になると、その音だけが残る。アッカは、その音を聞きながら子を育ててきた。
トゥルが椀を受け取るために、身をかがめた。
そのとき、アッカの鼻に、匂いが届いた。息子の懐からだった。
煤の匂い。篝火の煤だ。谷では、篝火は焚かない。獣脂の灯の煤とは違う。もっと乾いて、もっと高い所の匂いがした。
アッカの中で、何かが一つにつながった。
朝の、懐の膨らみ。洗濯場で婆さんが言った、鉄の文箱。証文の裏に綴じた、もう一枚。そして、館の書類が一通失くなったという、昼に谷を回った噂。
息子は、あの紙に関わった。
*
アッカは、訊かなかった。
訊けば、息子は答える。答えるしかない。灰狼は偽りを言えない。言えないから、谷の母親は、訊く言葉を選ぶ。選んで、選んで、ほとんど何も訊かない。
訊いて、息子が答えたら、アッカはそれを知ってしまう。知ってしまったら、誰かに訊かれたとき、アッカも答えるしかない。明日の裁きの席で、誰かがアッカに訊くかもしれない。訊かれないかもしれない。訊かれないなら、知らないほうがいい。
息子を守る方法を、アッカはほかに知らなかった。
トゥルは豆を食べていた。いつもより、ゆっくりだった。母のほうを一度も見なかった。見れば、何か言わなければならなくなる。息子もまた、言わないことを選んでいるのだ、とアッカは思った。
ミルだけが、豆の数を数えていた。
「兄ちゃんの豆、わたしより三つ多い」
「明日、早いから」とアッカは言った。
ミルは納得しなかった。それでも、自分の椀を抱え直した。
*
獣脂の灯が、じりじりと焦げた。灯の芯が短くなると、脂の匂いが強くなる。アッカは芯を切らずに、そのままにしておいた。もう少しだけ、明かりがほしかった。
ミルが寝息を立てはじめた。兄の尻尾をつかんだまま眠っていた。
アッカは寝床の脇に座り、トゥルの肩の毛を、手で一度だけ梳いた。子どものころ、そうして寝かしつけた。十八になった息子の肩は、アッカの手のひらより、ずっと広くなっていた。
トゥルは、何も言わなかった。目を閉じていた。眠ってはいなかった。
窪地の底の流れが、変わらない音で鳴っていた。
訊かなかった。それが、アッカにできるいちばん大きなことだった。




